紳士不省

 諸行無常、などと言うとどうも抹香臭くはなるものの、しかし概念としてこれは実に正鵠を射る言葉であっていかにも、時が流れている限り物体であれ現象であれ「昨日とまったく同じもの」は存在しない。
 花は風雨に切り取られ、石は流れに削られて、人は時間に殺される。全てが移ろう世界の中で、変わらぬものはひとつだけ、永劫続くこの想い、キミに届けよアイラヴユー。って一体誰がここでドン引きラブレターを書けと言ったかね。

 それはともかくとして、世界の全ては変わり続ける。たとえ物体の外見上に違いは見られないにしろ、今日のそれは昨日のそれより一日多く歴史を刻んでいることになるのだ。重箱の隅に飽き足らず針先でノミを穿つような理論ではあるが、そう考えれば、一日と言わず一秒たりとも同じ姿でいるものはないのである。たとえじいさんがこたつに座ったまま三日も動いてないということになったとしても、その姿勢には変わりないものの、確実に時を刻…おじ、おじいちゃん? おじいちゃんっ?

 いやだからそういう悲しい話はともかくとしてだ。この世界の変化というものは、普段気にしていない分野であればこそ、偶然にもそれに気付いた時にたいそう驚かされることになる。つまりは、いつの間にそんなことになったんだという驚きだ。そういう観点で今私が一番気になっているのが、ゲームを取り巻く環境についてである。
 かつてゲームとは子供のもの、でなければ一部の熱狂的なファンである大人に支えられていただけのもので、世間ではとかくネガティブなイメージが強かった。ゲームセンターには不良が集まると定義されていた頃である。一日一時間と決められ、目が悪くなると親に敬遠され、そして宿題や手伝いといった義務の対極にいつもあったのがゲームであった。

 ところが今はそれがどうかと、店の片隅にあるゲーム売り場を覗いてみた時のこと、私はその光景に愕然とした。どう見ても「老夫婦」という言葉に値する年齢の二人が、何やらコントローラー然とした白いプラスチックを手に談笑しているのだった。何だこれは。いや決して悪くはない。悪くはないがなんというか、時速二百キロで疾走する大型二輪にモンペ姿のおばちゃんが乗っていましたというような、でたらめな違和感を生じさせる光景だ。
 確かに「孫に頼まれたゲームを買いに来た」などの可能性とてゼロではないが、しかし孫から聞いただけの名前から間違いなくそのパッケージを探し出せるほど、メーカーの作りも店の陳列も親切にはできていない。かつて「ディーエスのスウドク」と言われて買いに行ったはいいが、パッケージを見つけるのに三十分かかった私が言うのだから間違いない。だいたい何だ数独って。ずっと「数読」で探してた時間を返せと。
 そんなことを思いながら見るともなしに観察していると、そのうち旦那と思しき男性はコントローラー然としたものをテニスのスイングのように振り始めた。やる気満々だ。やはり孫のためではなく、間違いなく自分たちのために買いに来たのだろう。ほんの少し前まではゲームとは一番縁遠かったはずの年代が、だ。何か実に面白くなってきたと感じる。

 しかし、となれば、ここでまた新たな問題が発生するのではないかと私は思う。それがゲームに関する名前だ。
 例えば、紳士と呼ぶべき初老の男がいたとする。ちょっと長めの銀髪はきれいに整えられ、ヒゲもきっちりと切り揃えられている男だ。カジュアルな服装ではあるがそこに不潔さやだらしなさは微塵もなく、週二回のジム通いで適度に締まった筋肉は、颯爽とした足取りを演出する。飽くまで謙虚で物腰は柔らかいものの、叡知が刻んだシワの奥にある澄んだ目には、根拠のある自尊心が光っている。人とすれ違えば、電車に蔓延するあのサラダ油と消しゴムを混ぜたような「ジジイ臭」の代わりに、厭味にならない程度の微かなトワレの香りを残す。デブとステレオタイプと勘違いが八割強を占める日本のジジイ界に属する年齢としては、まさに奇蹟とも言うべき男である。
 その紳士が、テレビの前でバーチャルなスポーツができるのなら使ってみようかと、今ゲームハードを買いに来たとしよう。だがまさにそこで、名前にまつわる悲劇が発生するのではないかと私は思うのだ。
「いらっしゃいませ」と店員は当然こう来るだろう。
「ああ、ゲームの本体を買いに来たのですが」と切り出す紳士。
「はい、どちらで」
「そのあなたのすぐ後ろにあるゲーム機をください」
「あ、このスーパーファミコンですか」なんで今さらそんなものを置いてある。
「いえ、それじゃなくてすぐ後ろのものです」できれば名前は言いたくないのだった。
「ええと、あ、ツインファミコンですね」何時代だこのやろう。
「いや、その、…ぃー、というのを」
「何ですか?」
「…ぃー、ですが」
「何ですか?」
 もう紳士も覚悟を決めてしっかりと言うしかない。が。
「うぃー」
 それは積み上げた数十年間のダンディズムが瓦解する瞬間であった。
 なにしろ口を横に広げて言うは「うぃー」である。英語の「We」ならば良かった、フランス語の「Oui」でも問題はなかった、しかしここにあったのは日本語の「うぃー」だった。それはダンディズムへの挑戦であり、また侵蝕であり、至るは破壊行為である。「うぇー」じゃなくてまだ良かったじゃないか、という言葉が今さら慰めになるとも思えない。

 しかもそこで試練が終わったと思うのは早計というものだ。今度はソフトの名前に悩まされるのではないか。詳細は知らないが恐らくこれらの商品名は人の名前と同じで、差別語や社会的禁句でなければどう命名しても構わないようだ。
 そして例えばそれは、紳士が宣伝を見てこれぞと選んだソフトの名は、あろうことか「ぽっぷんゴルフ:みんなでホールインにゃん♪」なのだった。だいたいにして、紳士ならずとも大人になってから発音するパ行というのは「ペヤング」「プリン」「穂積ぺぺ」ぐらいにしておきたいところだ。それが何だ、言うに事欠いてぽっぷんゴルフだと。
「すみません、ゴルフのゲームを探していまして」
「ああ、『実践テクニカルゴルフ』ですか」それだったらどんなに良かったか。
「いやええと、他に何か、ありますか」
「ああ、『リアリスティック・ゴルフ』ですね」だからそれだったらどんなに。
「他にはありませんか」
「見当たりませんねえ」ぽっぷんゴルフだよ。ぽっぷんゴルフ。
「テレビの宣伝で拝見しまして、もう発売されているはずなんです」
「名前の一部でも、わかりませんか?」
「え。ああ、何と申しますか、…んゴルフ、だったかと」
「何ですか?」
「…ぷ…んゴルフ」
「何ですか?」
「ぽっ…」
「え?」
 あえて結末は言うまい。それにしても店員、わざとやってるだろ。

 ゲームが依然として子供中心のものであったなら、名前など大した問題ではない。食べかすを額にくっつけた子供が「あの、『お茶目王子のファイヤーサッカー』くーらさい!」と駆け込んでこようが特にこれといった違和感はない。なぜなら子供はたいがい阿呆だからだ。しかし「王子がお茶目である必要がどこにある」とかいろいろツッコみたくなる大人がその主体に加わったとなれば、今やメーカーの業は深い。
 その機種が限定されているとはいえ、大人がゲームに足を踏み入れたのは恐らく良いことなのだろう。なれば唯一残る問題は、いかにして紳士に無理なくゲームを買わせるかということであるはずだ。商品を自分で見つけて直接レジに持っていくことができればまだ救われるが、とはいえ紳士でない私だって、できれば「ぽっぷんゴルフ」を持って店内をうろつきたくはない。「あ、あいつ帰ってぽっぷんするんだぜ」なんて呟かれたら死にたくなる。

 であるから私はここで思うのだ。何も考えずに勢いだけで名前を付けてはいけないと。変化を得た市場を鑑み、そして紳士を思い、何人にも不便をかけることのないよう、いま包括的な問題の解決にあたるべき時が来たのだと、私はゲーム業界に提案し、諌言し、そして何より、「強化フィルムコーティング」などと書いて喜んでる奴にだけはこんなことを言われなくなかろうと、心から同情する次第である。ぽっぷん。

20080421