八百万の終焉

 例えば「その手紙は、机の引出しの奥に忘れていたものだった。」という出だしの小説があった場合、自ずとその後の展開および小説の方向性は決められてくる。おそらくは「その手紙」がキーアイテムとなるはずだということが推測され、どう間違ってもその後「でもそれはそれとして、地球外生命体が攻めてきたから行くぜジョニー」と続くことは(面白いが)ありえない。
 亡くなった祖父の遺した手紙か、あるいは数奇な運命のもとやむを得ずも別れた女性からの手紙か、何しろ冒頭に持ってくるからにはそれは曰く言いがたいある種の重みを備えていなければならないだろう。となれば以後いかな紆余曲折を経ようとも、最後にはやはりその手紙と向き合い、そしてそれに関して少なくとも一つの解決を導いて物語を締めるのが王道と言えるのではないか。それこそが様式美であり、正義は必ず勝つといった構造であり、そしてめでたしめでたしの世界なのである。

「その手紙は、机の引出しの奥に忘れていたものだった。これはまさか。瞬間、俺は古傷の痛みを感じて思わずその手紙を手に取っ……たらその下からガムが出てきた。食えるかなこれ」
 朽ち果てろ。

 さてめでたしめでたしといえば、どうも気になることがある。
 思い返してみると今までに聞いた「むかしむかし…」で始まる物語は必ずと言っていいほど「めでたしめでたし」で終わる。「めでたくなる」には「死ぬ」という意味もあるので、本当にめでたく(=幸せに)なったのか単にめでたく(=お亡くなりに)なったのか判然としない不安は残るが、まあそれはいい。問題は、めでたしめでたしに準ずる別の言葉が何だかやたらとあるということだ。

 割と有名なところでは「どっとはらい」とその愉快な活用形たち「どっとはらえ」「どんとはれ」などがある。このどっとはらい、そういえば元々どういう意味かと調べ求めてはみるものの諸説紛々としてなかなか当を得ない。方言だと言われればそれ以上追究もできないし、また勝手な後付けの説明も考えつかないことはないが、しかしここはひとつ「これといって意味のない掛け声然とした言葉」と捉えておくのが一番正しいと思われる。
 余談だがこの言葉、思うに一時期「…ました。どっとこむ。あっ、間違えた!」などとやってスベり倒したじいさんが、少なく見積もっても全国で八〇人はいたはずだ。その後どんな姿勢で後悔し何日かけて反省したのか、実に興味は尽きない。
 ちなみにどっとはらいのことを英語では「pay in full」といい、その発音が「painful」と同じであるため、こちらもめでたしと同様、上手く収まったのか悲惨なことになったのかわからず皆が不安になっているということだそうじゃ。どっとこむ。あっ、間違えた!

 またちょっと変わったところでは「いちごさけた」という締めがあるようだ。実際初めて耳にしたとしたらいったい何事かと思うだろう。なにしろ昔話をしていたおばあちゃんが突如「イチゴ裂けた!」と言うのだ。わからないにしろとりあえず「大丈夫ですか」と気遣うしかあるまい。いろんな意味で。
 これはどうやら「市が栄えた」なり「一期栄えた」なりの言葉が崩れた結果であるらしく、栄えたのならめでたしとそういうことなのだろう。しかし一度崩れた表現は、時代を経るにしたがってさらに崩れていくという傾向がある。これから数十年後にこの言葉はどうなっていくのだろう。「いいちこ、酒だ!」何を言っているんだおまえは。

 しかしこうして、語源が推測できるものあるいは推測しようと思えるものならまだ納得はできるものの、そこは言葉の豊富なこの国のこと、もはや意味不明である締めもいくつか出てきてしまう。「しゃみしゃっきり」もその一つだ。
 しゃみしゃっきりである。伝統を軽んじるつもりは毛頭ないが、まあその何だ、おまえらそれ語感の気持ち良さだけで決めただろ。そう勘繰りたくなるのであった。
「…幸せに暮らしましたとさ。しゃみしゃっきり」
 確かに「はいおしまい」と等閑にやられるよりは明確な区切りがあって気持ちがいいし「…暮らしましたとさ。ゲホッ。ふんが。そこのお薬ゲェホッ」とやられるより安心して帰れるというものだが、ここまで来るともう、語感が良ければそれでいいのかと思いたくなるのもまた正直なところである。
「幸せに暮らしましたとさ。ジャムそっくり」
「幸せに暮らしましたとさ。ひょっとこスリッパ」
「幸せに暮らしましたとさ。ポコペン金平糖」
「幸せに暮らしましたとさ。てっきりツルッパゲ」
「幸せに暮らしましたとさ。すててこテンガロン」
 なんでもいい。

 そしてこのなんでもいいということには昔人も気付いたらしく、驚いたことに「どっぺん」というぞんざいにも聞こえる締めがある。
「二人はいつまでも幸せに暮らしました。どっぺん」
 こんな締めで幸せに暮らせてたまるかと、敢えて私は言いたいのだった。しかも一つ危険なのは、こういった口頭での伝達の場合には、その言葉の選択がある程度話し手に一任されるということだ。どういうことかと言うと、
「幸せに暮らしました。どっぺんどっぺん」
などと勝手に言葉を増やす者がきっと出てくるに違いないのである。のみならずそこで止めておけばまだ救いもあろうものを、テンションの上がりきった話し手にはどういうわけか開拓精神がみなぎっている。「どぺどっぺん」と変形し「どっどどどっぺん」とやってみて「ガッテンガッテン」に寄り道したかと思えば「どっぺんぽんぽん」となぜか余計なものをくっつけ始め「どっぺんででんこがりずんずん」が長すぎると反省したのかどうだか知らないが最後にはどこかで聞いたことのある「どどっぴどうー」に帰結してしまうと、そういった具合である。国文学研究者たちは今ごろ頭を抱えているのではないかと思う。

 このように地方によりまた話し手により数多く生み出された「締めの言葉」だが、そこに共通するのはそれが記号化されているということだ。例えば外国では「ハツカネズミがやってきた」という言葉がある。完全に文章として成立しているため、なんだ新しい話なのかとは思ってしまうものの、さにあらずそれが「どっぺん」と同等の記号なのである。それは「QED(証明終わり)」や「EOF(ファイル終わり)」にも似た、こちら側では何を求めようともすでになす術のない強制終了記号だ。
「むかしむかしあるところに、おじいさんとおばあさんがシんでいました。どっとはらい」
 終わりである。終了の記号が出たからには以上に話が続くことはなく、しかしそれに対して誰も文句は言えない。飴ちゃんでももらって帰るがいい。

 そう考えていくと、この締めの言葉にはその表面からだけでは想像もつかない深い意図が隠されていることに気付くわけだ。国文学の観点からという話になるので少々長くはなるがやむを得まい。
 それははるか昔、この国において言葉たるものがようやっと成立しつつあった頃にまで遡る。むかしむかしのことだ。あるところでまず大和言葉というものが発達しており とっぴんぱらりのぷう。

第8回雑文祭

20071222