主の起源

 スポーツの秋とは誰が言い出したことなのかは寡聞にして知らないが、そういう季節なのだろうか、自分の周囲にもぼちぼち「なんとかマラソン」だの「歩く会」だといった催しの告知が出るようになった。
 聞けば年々その参加者が増えているのだそうで、おそらくは完走後の達成感や、あるいは気持ちの良い汗などを経ることで病み付きになる類のものなのだろう。マラソン中毒、ひいてはスポーツ中毒と言っていい。しかしこの中毒は決してネガティブなものではない。なにしろスポーツ中毒である。跳ぶわ踊るわ投げるわ、のみに飽き足らず泳いだ後に自転車を漕ぎ、そこでやめときゃいいのにさらに走るわとまあ、えらい騒ぎだ。
 そんな者がうっかり足でも折った日にはことである。入院先の病院で彼は、医者の制止も振り切って不意にベッドの上に立つ。そして痛々しくも巻かれたギプスすら何するものぞと、つい声を絞り出してしまうのだった。
「…走りてえ!」
 やめとけ。

 さてそんなスポーツ中毒の祭典、世界陸上が今回も無事に開催され、そして興奮のうちに閉幕した。いやもうこのレベルにまでなると「ミュータントの祭典」と言った方が良いのかもしれない。百メートルを(道交法上での)原付より速く走り、七キロあまりの鉄球を八〇メートル投げ飛ばし、棒一本で六メートルの高さを跳び越したかと思えば横では九メートル近くも空中を歩いているのである。悪い意味でのことではないにせよ「人間辞めちゃった人」という感想しか出てこない。
 そんな超人たちが集い、さらにその頂点を極めんと繰り広げられる闘いの最中で、それを見ていた私にある一つの疑問が生まれるのである。これらの競技は、いったい何がどうなってのち成立したものなのだろうかということだ。

 マラソンの起源だけはどこかで聞いたことがある。確か一人のギリシャ兵が自軍の勝利を報告するためにマラトンからアテネまでの四〇キロあまりをひた走り、「エウレカ」と叫んで物故したとか何とかそういう話であった。「最初にやってみた人が死んでしまった運動」を競技とするところ、大変間違っているんじゃないか危ないじゃないかよといつも思うが、とにかくマラソンについてはそういう起源があってのことだという。

 では他の競技についてはどうなのかと、私はそれが気になって仕方がないのだ。
 とはいえ、走る競技の起源に関してはなんとなく想像できなくもない。そこはきっと遠い国の、未開なる集落だ。彼らはもって生まれた競争本能に従い、一歩ですら優越感を得ようと何かしらの目的地まで皆、がむしゃらに走った。そのうち部族内で速いと評判の者たちが自ずと絞り込まれていくのだが、悲しいかなストップウォッチがある時代でもなし、またスタート地点とゴール地点の双方ともが時と場所によって異なるという流動的な条件のため、どうにも一番は決めかねる。なにしろ並ぶという概念すらないのだ。結果、俺があの木まで早かった、いや俺はあの谷で一番だったと、止めようのない小競り合いも始まるだろう。するとその時、大きな茅葺きから突如として、物々しく扉板を上げる音が聞こえるのである。
「まあ待て」
 長老だ。いままで黙って外の騒ぎを聞いていた長老はどうやら、水掛け論に辟易したものと思われる。
「比べてみれば、いいのではないかな」
 長いヒゲを整えながら努めて厳粛に提案を投げかける長老。「人集まれば諍いあり、か。わしも若い時分は…」などとつい余計な昔話をしてしまうのはいつの時代も同じだが、そして長老はしゃべりながらも手にした杖で地面に長い線を引くだろう。
「ここにな、こう、まっすぐになるんだ。そうだ。おまえも。ぶつからないようにしろよ。よし、じゃあわしが『よーい、ドン』と言ったらみんなで走るんだ。どこまで走るかというとだな、」
 いきなり百メートルあまり先の大木まで走り出す長老。その健脚から見て、あと十年ほどはその地位を明け渡す気がないらしい。「ばうっ」ただしさすがに途中で転んだりはするようだ。
「ここだ。ここにはじめに来た者を、一番速い者とする。それでは、よーい、ドン! …って言ったら走るというのは覚えているな?」
 一人でドリフをやっている長老はもうほっとくとして、そういう流れで百メートル走が生まれたと考えるのが自然なところだ。

 しかしそれも一種だけでは不公平が生じようもので、「おれ、あの木まで、遅い。でもおれ、あの山まで、速い」なる中距離指向の者がいて、いや別にカタコトにする必要はなかったが、そうして四百メートルや八百メートルなどの基準が生まれる。
「もっとの長い、おれ、速い」わかった千五百メートルも作ろう。
「長い、だめ。向こうの木まで、おれ、速い」よし二百メートルも作ろう。
「疲れる、おれ、走る、いや」帰って寝てろ。おまえは俺か馬鹿。
 とにかくかようにして、走る競技が成立していったのではないかと考える。

 では跳ぶ競技はどうかと考えてみると、これもなかなか興味深い。
 高跳びそして棒高跳びについては、おそらく已むに已まれぬ事情が生み出したものではないかと思う。世間と隔絶された場所からいま自由を求め、塀の外に広がる青空に向かって乾坤一擲たる弧を描い…たのはいいがマットが用意してあるわけもないし結局向こう側に頭から落ちてやっぱり物故したと、そういった悲しいお話だろう。
 幅跳びはいかにと言えば、これは高跳びと比べまだちょっと平和な匂いを発している。これも走る競技と同様に意地の張り合いが生じたのではないか。一人が「俺はあの川を飛び越えた」と自慢すればもう一人が「いやしかしあの日は川の水が少なかった」とすかさず反撥し、するとやにわに「俺は寝ている五人を飛び越えたことがある」と容喙する者が出てきて、あとはやれ大蛇を飛び越えただのやれ大穴を避けただのという主張が場を占め、果ては「俺は時空を飛び越えた」なんて二秒でばれる嘘をつく奴まで現れる始末だ。さぞかしその場はうるさかっただろうが、しかしやはりここで突然、静寂を誘うべき扉板の音が聞こえるのだ。
「まあ待て」
 出た長老。余談だが私はこの長老にぜひ「モウリシゲ」と名付けたい。
「比べてみれば、いいのではないかな」
 そうしてまた基準が生まれ、時代が下るにしたがって助走距離や踏み切り、計測方法などが細かく定められていって現代の競技と完成したのである。

 しかしそうやって起源を考えていくと、ハンマー投げと砲丸投げについてだけはどうにも釈然としないものが残ってしまうのだった。
 槍投げは、当時から獲物に槍を投げる習慣はあっただろうから理解できる。円盤投げも、苦しいがまあ、飛びそうな形ではあるから我慢できずつい皿か何かを飛ばしてみたのだろう。だがそれがハンマーにしろ砲丸にしろ、鉄の塊ということになれば話は別だ。なぜあんな重い物をわざわざ投げようと思ったのか。
 例えば現代で考えるに、扇風機でもサーバ機でも何でもいい、重い物を持つとしよう。持つからには移動なり収納なり何らかの目的があったはずだが、しかし男はそれを忘れてしまったとばかりふと行動を止める。じっと落とした視線の先にはサーバ機だ。
「…投げてえ!」
 おかしいじゃないかと。その不可解な情熱はいったい何だ。いや百歩譲ってそういう人がいてもいいとしよう。だが競技になるからには、同様の人間が他にもいなければならないわけだ。
「俺はこのサーバ投げたいどーん!」
「じゃあ俺はこっちのサーバだどーん!」
「負けるかサーバどーん! もひとつおまけにどーん!」
「※回線障害のお知らせ」
 何やってんだよおまえらは。

 話を戻すが、単なる力比べをしたかったのならば、ウェイトリフティングよろしく重い石を頭の上まで持ち上げて静止する、といったもので充分だったはずだ。あるいは投げ技を競うのであれば、昔とはいえもっと軽いボール状の、例えば木の実なんかもあったはずだ。なのになぜそこでわざわざ重い物を投げるという危ないことをしてしまったのか。私は考えた挙げ句、その責任があいつにあるのではないかと思い始めた。

 いつものように誰が一番力持ちかで小競り合いを始める集団。あの山の岩を持ち上げたぜ、と言われたところで証拠もなし、ひたすら続くは不毛な争いだ。と、響きを立てて扉板が開く。
「まあ待て」
 毎度おなじみ長老でございます。お騒がせしております。
「比べてみれば、いいのではないかな」
 またも長老は解決策を携えて光臨なさったのである。さて力比べにどのような案を提示してくれるのか、周囲の者たちは固唾を呑んで見守っていただろう。
「ではこの石を、よいしょ、ほら。おまえから投げてみろ」
 しかし唯一の悲劇は、長老が今回あんまり話を聞いていなかったということであった。投げるなんて話は誰もしていないのに、この重い石をあろうことか投げる結果となってしまった。文句は言いたいが相手は長老だ。肩をしたたかイワせながらもここは投げるしかあるまい。
 こうして当時多くの怪我人を出した試みは、時代が下ると共に効率的な投げ方も考案されて、この現代に競技として成立したのではないか。それを喝采すべきだろうか。いややはり、あんな重い物を投げていたら本人の体も痛めるだろうという点で、どうも手放しでは喜べないような気はするのである。

 観戦している我々にとっては、あんなものを投げ飛ばしてしまう姿は実に小気味よく、あらためて選手たちの凄さを実感できる競技ではある。しかしだからと言って、選手たちの体が壊れてもいいということではなかろう。となればこれをも含めたいくつかの競技はまだ、実のところ発展途上にあるのではないか。スポーツたるや体にいいという前提であるはずなのだから、まずは安全面を徹底した上での競技として完成させていくべき侃々諤々たる議論が、必要とされているのではないかと、私は思うのだが、待てよ、議論するとなると…や、あれは扉板の開く音。
「まあ待て」

20070920