籔の外

-競走の始点で旗を執りたる狐の話-
 ええ、間違いございません。確かに私が、ウサギと亀の競走について開始の号令をかけたものでございます。水を欲して川へ行きました帰路で、ウサギの方に呼び止められたものと記憶しています。
 変わったところでございますか。さあて。思い返すにその日は秋の薄曇り、昼前とはいえなにしろ周囲に何もない草原でございましたから、ただ佇むにはもう若干の火の気すら恋しくなるといった具合でした。色を失い始めた草々が時折秋風に揺れる他は、我々三人の立てる音もなく、あたかも儀式の前のような厳かなる静寂が立ちこめておりました。
 正直な話、競走となれば鈍足な亀がいかにしてウサギに勝てるものかと、私はすでに勝敗を見ているような心持ちでおりましたから、たいしてそこに興奮もなく、従容として命じられるまま旗を構えていたのでございます。あとはご推察の通り、私は声を出して機械的に旗を振り、予想通りの脱兎と鈍亀を一瞥したのち早々と洞穴へ帰ってしまいました。それが私の申せる全てでございます。あれから何がいったいどうして、亀が勝者となったのか私には皆目見当もつきません。

-競走の終点で亀を迎えたる熊の話-
 いえ、私は決して、亀のそこに辿り着くのを存じていたわけではございません。私も冬眠の近い身ですから何ぞ獲物をと彷徨いたしておりまして、しかし日の悪さゆえにかどうにもこうにも満足のいくものではなく、疲れ果てて大岩に背を委ねていたのでございます。そこが競走の終点だとはいかに知る由がありましょう。
 亀でございますか。ええ、確かに私が最初に見たのはこちらへ向かってくる亀でございました。とはいえご承知の通りあの亀の足ですから、遠くの草むらに蠢くものありと認めてから半刻あまり経ちましょうか、その大きさが一寸から二寸になり、二寸が五寸になったところでようやく私はそれを亀だと知ったのです。
 訊けば無謀なるかなウサギと競走していたとの亀は、呆然としている私の足元にやっと歩を止めたかと思うとおもむろに凱歌をあげたのでございます。ほどなく迫ってきたウサギの長い耳にもそれは轟然と響いたのでございましょう。今や目だけでなく顔中を真っ赤にしたウサギはただ歯噛みをして、一言たりとも発することがありませんでした。まさか亀との競走に負けるとは、私どものみならず本人とて夢とも思っていなかったでしょうから無理もありますまい。(悚然たる微笑)しかし世界の何が狂って亀の勝つところとなったのやら、祖母の伽に申すは亀の万年を生きるとのことで、これぞ霊験のなせる業であろうかと私はひたすらに驚くばかりでございます。

-亀に敗れしウサギの白状-
 はい、確かに私は競走において亀に敗れました。途中で不覚にも眠り果てたのがその理由であるとつい先般も申し上げましたが、なるほどやはりそれを不自然だとお疑いになるのも無理はございません。ふむ、いいでしょう、何も他命をこの手にかけたわけでもあるまいに、覚えのない腹を探られるのも本意ならぬところでございます。ここにこう参ったからにはもう、偽りなく全てお話しいたしましょう。
 あの日私は、もうご承知の通り亀を挑発し競走することと相成ったわけです。憚りながら俊足である私と鈍足で知れた亀がその足を比べようかと、これほど愚かしい競走もありますまい。(冷然たる嘲笑)しかしだからこそそこに、私の真の計画が効を奏するのです。
 いかにも私は、前もって草原の動物たちに風聞ながら競走の旨を知らせておいたのでございます。競走のこととなればそれは、暇を金に換えたい草原の民のことでございますから、必然「賭け」の話も持ち上がりましょう。実際それは思惑通りとなり、しかも亀に賭ける者など一人もなきゆえ賭けの成立すらも危ぶまれと、まさに私の意図を懐紙に綴ったかのような様相となりました。ここで私が誰ぞ仲間を使い、亀に賭けさせ、そして私が何らかの要因をもって敗れるとすればどうなりましょうか。言わずもがなとはこのことでしょう。
 そこで私は競走の始まるやまずは逸散と走り出し、背に亀の気配も感じなくなった頃にすかさず横道へと逸れたのです。私の影すら認めることのできない遥か後方の亀に、どうしてそれがわかりましょう。あとは横道から亀を注視しつつ、終点間際で必死なる様相にて追いかけさらに「道中うっかり眠ってしまった」とでも申せば賭けへの面目も立ち、結果私に大金が転がり込むという実に単純な話なのでございます。
 金銭に換えられぬ矜恃、でございますか。(侮蔑なる哄笑)いやいや、無礼にも笑ったことをお許しください。率直なところどうにも滑稽でございましたからな。失礼ながら、政なる御為ごかしを旨として結果、下々に生活の苦をお与えになりますどなたぞのことを考えますれば、金銭より大事な矜恃などと、いやいささか滑稽でございましたからな……(後は笑い狂いて言葉なし)

-競走を木陰から覗きし猿の話-
 大方仰る通りでございます。私はあの日に、どうなるものやらと不安ながら隠れつつ競走を見守っておりました。と申しますのは、あのウサギが……どうか信じてくださいまし。私とて命惜しい身、ありしままを包み隠さずお話しいたします所存でありますゆえ、どうか信じてくださいまし。あのウサギが、亀を殺すつもりだと申しているのを聞いてしまったからでございます。
 ウサギの話せる、下品ながら立ち聞きしてしまったことを要約いたしますと、なんでも亀の長生きなゆえにか、ウサギにとっては歴代に遡るべき積年の恨みがあるとのことでございまして、なれば己が代に雪辱すべきがまさに天命である、ついては今般申し込む競走の場において土草に紛れあれを殺害する心づもりだと、そのようなことでございました。
 私は冗談とも思えぬウサギの血気に恐ろしくなりましたから、話の相手が誰かということを確かめることもなく早々にその場を辞してしまいました。それからのち、果たして亀にこれを伝えるべきや否やと私の逡巡しているうちに、時の風聞通り競走が行われるということではございませんか。私はもうただの他人事とも思えず、しかし我が身を案じるゆえに木陰に隠れながらそれを見に行ったのです。
 そこで何を見たか、思い返すのも実に恐ろしきことではございますが、ウサギはやはり、先般の言葉を一切違えるつもりはなかったようでございます。亀を遥か後ろに取り残したウサギはそこでふと横道に逸れ、風になびく背の高い草を陰に、息も忘れたとばかり岩のように臥しておりました。そして一刻ばかりののちにでも、亀がようやっとそこを通りかかれば……。来たるべき亀の無残なるを想像するうちに私には、蛮勇といった類の勇気が湧いてきたのでございます。刎頚の交わりとも申せば口幅たきことではあれ、何しろ平生亀との親交のあった私にはどうしても、それをただ看過することはできなかったのです。
 気がつけば私は、足元の枝に絡まる頑丈なツタを手に、何らかと叫び声を上げながらウサギに躍りかかって遮二無二それを縛り上げていたのでございます。ウサギのもはや半狂乱なるを見て、まずは何をおいても亀に報せねばなるまいと、私は亀が来るであろう道へ走り出しました。が、これは一体私の迂闊と言う他はありません。背を見せた私を突き飛ばし矢のごとく走り去る白き畜生たるや、ツタを容易にも噛み切ってしまったウサギでありましょう。一瞬のうちに覚えた後悔、そしてこれから起こるべき惨劇への恐怖、また何より突き飛ばされた衝撃で私は気が遠くなり、唸りをあげながらそこに倒れ込んでしまいました。
 正気の戻りましたのはもう陽も落ちようという時分でございます。あれよりウサギと亀はどうなったのやら、確認したくもやはり知りたくはないような、何しろ恐々と古井戸を覗くかのような心持ちで、私は住み処へと足を引きずりました。それが結果まさか、亀も無事のまましかも競走の勝者となっていたとは想像だにしえないことでございます。失礼ながらどうかお教えくださいまし。あの者たちに何が起こったのでございましょうか。どうかお教えくださいまし。(悄然たる興奮)

-勝者となりし亀の白状-
 ふむ。勝ったか負けたかと言えば、私は勝ったのでしょうな。しかし仰る通り、たとえ何があろうとて亀がウサギに競走で勝つというのはいささか乱暴な結果ではありましょう。よろしい、何もお縄を頂戴するようなことでもあるまいし、私がしたことをお話しいたしましょうかな。
 平生、私はウサギのやつめに明らかな不快感を抱いておりました。と申しますのも、ウサギは己の俊足であることを折に触れては声高に喧伝するのです。生来与えられたものでありますからその自負はわからないこともありませんが、それを他と比べようかという試みたるや実に愚かしきことです。たとえ象の足が遅いとて、たとえ鷹の地面を上手く歩けないとて、それを殊更に責める者がどこにおりましょう。適材適所たる所以をやつめは、毫も理解していなかったのです。
 とは申しましても、ゆえに何も殺そうと思うわけではありません。その得意としている競走の場でひとつ鼻を明かしてやろうかと、そういう心づもりでおりました。あの日も私に競走を挑み、勝ちも同然と思い込んだウサギの表情を横目で見るにつけ、この心中では失笑の嵐が渦巻いていたのです。
 ウサギの第一の失敗は、競走が始まるやこちらを振り返ることもなく一心に飛び出して行ったことでしょう。相手の動向を見ることなしとは、兵法に照らせばすなわち命取りというものです。これは実に愚かしきこと、なぜかと申せば、私は旗の振られて以降一歩たりとも動いていなかったからです。
 ウサギの第二の失敗は、競走の終点を遥か遠方へと定めたことにあります。「あれに見える大木まで」ともなれば私は世の常通り、無様な敗戦を演じることにもなったでしょうが……。さて、ウサギを見送った私はいまだ一歩と動かずのまま目を瞑り、周辺の亀たちと意志疎通を行ったのです。終点に一番近い場所にいる亀はどれであるか、と。
 方法、ですか。ふむ、火と道具の恩恵に一切の身を委ねてしまわれたあなた方にとっては、失礼ながらご理解に苦しむことやもしれませんな。いやどうぞご気分害されることのなきよう。私のみならずあらゆる動物たちには、多かれ少なかれこの類の能力が備わっているのですよ。殊に私ども亀ともなれば、長く生きる間に自ずとその能力も研ぎ澄まされるもの。どこぞの社会では「亀の甲より年の劫」なる言葉があるようですが、その亀とて年の劫には覚えありとこういう皮肉になりましょうかな。(愉悦たる微笑)
 どこまで申し上げましたか、ああ意志疎通でございますな。幸い我らのいわゆる縄張りは広大なもので、亀とあらば実にどこにでもいると申し上げても過言ではありません。ちょうど過日も終点の間近に集落がありましたから、それの一匹の亀をしてそこに待機せしめたわけです。あとはウサギの動向を皆で確認しつつ、さも駆け込んだとばかり終点を跨ぎさえすれば良いのです。これが私の奸計たる全てです。
 すり替わったことにウサギが気付くだろうと? ふむ、これはまた異なことを仰いますな。老亀が子亀にもなろうものならいざ知らず、仲間でもなし他の個体に、どうして亀の見分けが付きましょうか。それが証拠にあなた方とて、消息を絶った仲間を見つけよう際にはまずその者の服装の話から入るではありませんか。同種間ですらその程度の認識度でありますのに、まして服など着るべくもない我ら、異種にその見分けは効きません。(昂然たる態度)
 となれば、さて何かお気付きにはなりませんか。ここの私は、実際競走の申し出を受けた亀でしょうか。あるいは終点を跨いだ亀なのでしょうか。またあるいは……。そしてそれは、ウサギとて同じことなのですよ。あの日終点で歯噛みをしたウサギが、始点を矢と飛び出したあの傲慢なウサギと同であるという確証がいずれにありましょう。事に拠ると──これは飽くまで可能性のみの他愛ない話ですが──あの傲慢なウサギはもう、その俊足を喧伝すべき息も失くし、どこぞの横道にでも人知れず屍を曝して、身に積もる白い初雪を待っているかも知れないのですよ……。

20070920