巡らないと

 昔から一般的に、夜間というのは人に特別な感情を起こさせるものであるらしい。
 なるほどひとたび陽が落ちてしまえば、そこに人工の光が用意されていない限りは基本的に暗闇である。視界が利かないため虫にぶつかられ放題、特ににぎやかな話し声が聞こえてくるでもなく、向かいから近付いてくる人の表情も窺えず、足元すらはっきりとは見えない。何かの拍子にうっかりコンニャクでも踏んでしまったら「ゎんむらびっちょ」などと変な声が出るに違いない。
 つまりそこにあるのはある種の恐怖、しかも「これこれが怖い」という具体的なものでは決してない、何か得体のしれない恐怖であるように思う。だからこそ「夜に爪を切ると親の死に目に会えない」だの「夜に口笛を吹くと蛇が出る」だのといった、いわば夜の特殊性を述べた言葉が継がれてきたのだろう。

 しかし落ち着いて考えてみると、そういった経験則らしき言葉があるということは、昔はみんな夜に爪を切ってみたり口笛を吹いてみたりと様々な無茶をしていたという証拠になりはしないか。夜の無茶。それは「夜のお菓子」とは一線を画すダメさ加減だ。なにしろ無茶である。
 爪を切るやつがいたのならきっと、何ゆえにか化粧を始めるやつもいただろう。だが忘れてはいけない、一日の終わりで疲れ切った夜だ。寝ぼけ半分、いきなり口にマスカラを塗りたくった上、アイホールにべっとり口紅ということもなかったとは言い切れない。「夜に化粧をすると化け物が出る」とまた新しい言葉ができることになる。
 あるいはさあ寝ようかという時間にやおら立ち上がる者。「私、踊る!」と、何事ぞという一声を発したかと思うとドッスンバッタン始まるわけだ。時折「ヘーイ!」とか「ふんばっ!」とかいう声も加わるはずで、床にいる者はうるさくてしょうがない。夜に踊ると傍迷惑、そう生成しようと家人が思った次の瞬間に突然鈍い音を立てて闇に倒れ込むそのダンサー。ダンサーインザダーク。どうしたのかと家人が駆け寄ればどうやら、よく見えなかったために足元がおかしなことになったらしい。「夜に踊ると足ぐねる」というこの言葉がどうして現代まで残らなかったのか、返す返すも残念でならない。

 いや無茶はどうでもいい、問題は夜だった。至る所に電気が供給され夜がなくなったとは言われる現代でもしかし、それはいまだ特別な一面を持っている。どうやら世間的には「夜に一人で歩いている人=全部犯罪者」ということになっているらしいのだ。確かに最近おかしいのは増えた。であるから気持ちはわかるものの、だからといって全員を犯罪者にするのはどうか。
 夜間のあの独特の雰囲気と静寂がただ好きな人もいよう。夜の方が風も出てきて涼しいし、と思う人もいよう。いずれにせよちょっと買い物をするためにたまたま夜間の外出を選んだだけであって、何も泥棒しようとか暴漢になろうとか思ったわけではない。しかも夜間とはいえせいぜいまだ九時だ。ほっといてくれないか。

「こんばんは」
「ああ、こんばん…ゲッ」
 とある店に設置された自販機に小銭を投入した時だった。てっきりそこの店のおじさんが声をかけてきたと思い、振り向きざまに挨拶を返そうとしたその瞬間、なんと目に入ったのは威圧感たっぷりの制服だ。サツだ。オマワリだ。ポリスマンだ。アンパンマンに比べれば多少は戦力として頼りになるものの(たとえ顔が濡れてもどうということはないから)、非情にもウルトラマンと比べてしまうとまったくもって何の役にも立ちゃしないというヒーロー界の根無し草、悲哀のポリスマンである。

「今日は夜も蒸すねえ」
「はぇ」
「買い物?」
 たった今自販機に小銭を入れた人間をつかまえて「買い物?」ときた。他にどう見える。「いいえ買い物ではありません。ぼく、僕は、こうして幸福の青い鳥、鳥さん、鳥さんを探しているんです。ぼぼぼ僕のあお、あお、青い鳥さんヌフフフ」とでも答えてやろうかと思ったが、それをやるとどうやら帰れなくなりそうだ。我慢しておくか。

「いやー、夏だからね、いろいろ」
「はぇ」
「おまわりさん、見回りなんだ」
「はあ」
「未成年じゃないよね」
「ええ」
「まあ念のためね。おまわりさん仕事だから」
 私はもうこの時点でイラッとしているわけだが、それは何も声をかけられて鬱陶しいからではなかった。犯罪防止のためにはこういったことも必要なのだろうから、それはいい。しかしどうにも引っ掛かって仕方がないことが一つ。
「オマワリはどうして自分のことを『おまわりさん』と言うのだ」
 これがどうも神経に障る。まだ子供相手ならばそれもいいだろう。「職業+接尾」として区切って考えるのではなく一つのいわば記号として「おまわりさん」という識別を与える方が子供にはわかりやすいということもある。しかしそれが、今タバコの自販機と向かう大人相手であるとどうか。自分自身に丁寧さあるいは敬意を付けてそこから何が生まれるというのか。

 例えばこうだ。玄関のチャイムで出てみればそこに佇む男が一人。何やらの包みを持ち愛想笑いを浮かべるその男は、軽く頭を下げたのちこう切り出すのだ。
「こんにちは、新聞屋さんですが。三ヶ月」
 ひっぱたくね。その持ってきた洗剤でおまえを洗ってやろうかと思うね。二回すすぐよ。
 他にも「布教家さんです」と小冊子を持ってくる女、「教祖様です」と自ら来るおやじ、「○○自動車さんからリコールのお知らせ」というCMに「こんばんはキャスターさんです」と挨拶する奴と、どれもこれもどこかが歪んでいる。なのになぜオマワリだけが疑問も羞恥もなく「おまわりさん」と自称できるのか。私はそこがわからない。そしてついでにその「おまわりさん」から続いて投げかけられた質問もよくわからないのだった。

「怪しいもの持ってないよね」
「はい?」
「あのー、武器とか」
 当たり前だ。今のところドラゴンを倒しに行く予定はない。どうやら「凶器となるもの」「刃物類」のことを言いたかったようだが、まあ自分でおまわりさんと言うほどの者、その語彙力とて推して知るべし。
「物騒になってきたからね、一応」
「や、持ってませんが」
「だよね」
「ん、出しましょうか? といっても今は財布と携帯ぐらいですけど」
「ああ大丈夫。見ればわかるから」
「はあ(じゃあなぜ訊いたんだおまえは)」
「えー、じゃ、元気で」
「『元気で』?」
「気をつけて帰って」
「ああ。ども」

 最後までわけのわからない男は満足そうにパトカーへと戻っていく。来た時には気付かなかったが、どうやら少し離れたところに駐車したパトカーの中から自販機周辺を監視しているようだ。自販機に人が来る→声をかける→武器持ってないよね→持ってません→だよね、じゃあ元気で。そういう一連のやり取りで夜が更けていくのだろう。それを批判したいわけではないがしかし同意もしかねる。つくづく、「おまわりさん」の考えることは不可解だ。
 それにしても。彼は夏だから見回りをしているという旨を話していた。となると何か、夏が終わるまで彼らはあそこで待機し、そして私のように夜そこを訪れる者はそのたびにオマワリと遭遇しなければいけないのだろうか。そう考えると、好きだった夜にまた別の一面を見せられたような気がして、恐怖ではないにせよ何か嫌な感情が湧いてくる。昼間とは言わずも夕方ならば普通に買い物ができるはず、しかしひとたびそれが夜になると、オマワリが配置され後ろめたいこともない人間が間隙をコソコソしなければいけなくなるわけだ。やはり夜の生む特殊性という点では昔も今も大して変わってはいないのだと、無理にでもそう納得するしかなかった。

 さて。運悪く今日も夜になってからあの場所へ行かなければならないわけだが…おや、この前の場所にパトカーがない。良かった。夏が終わったと見なしたのかどうか細かいことは知らないが、ともかくこれでのびのびと買い物ができるというものだ、ってゲッ。
「こんばんは。おまわりさんだけど」
 場所を変えたパトカーから現れたおまわりさん。神出鬼没のポリスマン。しかしそれはスパイダーマンに比べどうにも颯爽とした登場ではない。せいぜいがピアノマン程度のうさん臭いそれなのだった。
「暑いですね…あれ。また君か」
 こっちのセリフだ。またおまえか。
「買い物?」
 いいえおまわりさん。僕はあなたを遠ざけてくれる幸福の青い鳥を探しているのです。

20060908