本格面雀

 ものすごく独断と偏見ありきながらもあえて言い切ってしまうとすれば、やはり人間と生まれたからにはむやみに激昂してはいけないと思うのである。ちょっとしたことで理性を失い、人間なり無機物なりを相手に声を荒げるというのはあまり美しいことではない。
 確かに時として感情を率直にぶつける、口語的に言うと「キレる」ということは多少なりとも必要だとは思う。しかしそれが許されるのは人間としてここが限界であるとまで沸き立った場合のみであって、具体的に言うと、八〇年の生においてキレていい場面は次の三つだけである。

・粘着コロコロに繊維が付きすぎて始点(切り取り線)がわからなくなった時。
・冷蔵庫のドアがガッツンガッツンいって閉まらないのだが一体何が邪魔しているのかどうしても見つけられない時。
・チャーハンにレタスが入っていた時。

 特に三番目のチャーハンについてはそろそろ民事か何かで決着をつけた方がいいと思う。誰が最初に考え出しちゃったのかは知らないが、「ちゃうねん、ワシな、ちょっとな、やってみたかってん」みたいな中途半端なイタズラの結果を客に出してくれるな。美味しいものと美味しいものを合わせたら二倍美味しくなるよねー、とかいう算数の考え方か。おまえの中では二人三脚で百メートル五秒台か。デジタル表記の付いたアナログ腕時計は二倍の速度でチクタクか。二階のベランダより四階のベランダの方が二倍おふとんフカフカか。

 話を激昂に戻す。
 このように、大人としてキレる時にはその場面が限られてくるわけで、むやみやたらと怒声を発するというのは常識を疑われることにもなりかねない。となると、その時前触れもなくそこに飛び交った怒号というのは果たしてどうだろう。

「テンメン、ドラツモ、ソーズ、イーペーコー!」
 一瞬自分が雀荘にいるのかと錯覚してしまったがさにあらず、なぜならば今ここで私が手に持っているのは「麻雀牌」ではなく、買おうとした「アップルパイ」であるからだ(うまいこと言ったつもり)。
 一体何だ。立ち読みをしていた人、レジに並んでいた人、もちろん店員、そして私が一斉に声の方向を見ると、何があったのやら男性が側にいる女性を怒鳴りつけているのだった。今になってよく考えてみると、おそらくさきほどは「テメエはどうしていつもそうなんだと言ってんだろ」とか何とか言ったつもりなのだろう。なにしろ激昂しているので舌がもつれているのか、少なくともこの位置からではよく聞き取れない。
 なんだどうでもいいカップルの喧嘩かよ、そういった面持ちで周囲はそろそろと興味を失っていったものの、その男の勢いはまだ止まらない。聞き取りにくいながらもあらゆる罵声の類を女性にぶつけている。漫画にするならたぶん「ピーチクパーチク」とか「ギャースカピー」などが適切な表現だろうと思われるが、さて一方で女性はどう対応しているのかというと、見事こちらは漫画で言うと「ツーン」とか「しらー」とか「もぷーん」といった無視加減なのだった。何だこの温度差は。

 しかし何にせよ誉められた行為ではないと思う。場所を憚ることもできないほど頭にきたのか、あるいは人前で怒鳴り散らす俺って強いサイコー素敵っすと思い込んだのか、真意はわからないにせよ、もうちょっと冷静になった方がいいと思うんだ。そんなことを考えながらその男性の横を抜け私はレジへと向かう。そう、その先に待つ奇妙な世界などまったく知ることもなく。

「いらっしゃいませ馬鹿野郎」
 のっ。
 何か通常ではない変なところに紛れ込んだ、瞬間そう思った。聞き間違いでなければ私は今信じられないことを言われたはずだ。「いらっしゃいませ」ときて「こんにちは」ならばよく使われる、しかし馬鹿野郎はないだろう馬鹿野郎は。
 心底びっくりして店員を確認する。が、店員に悪意の表情はまったくなく、飽くまで真摯に作業をこなしているだけだ。おかしい。と思った次の瞬間、後ろから聞こえてきた声で全ては氷解した。
「ボケッ」
 そう、さきほど怒り出したあの男だ。とはいえ私に向かって言っているわけではない、相変わらず女性に向かって罵声を吐いているのだが、なんとまあその声が私の目の前にいる店員と限りなく似ていたのである。
 目の前には店員の六ボイシー(声質の単位)、背中には男のこれまた六ボイシー。つまりは店員とその男の声がステレオとなって私に降りかかってきているのだ。

「テメエはいつもおにぎりの方は温めてんじゃねえよか?」
 なんだよそれは。私は聖徳太子じゃないのでもちろん二人の言葉が混ざった状態で聞こえるわけだが、こんな並びの言葉は今まで一度も耳にしたことがない。正直気持ち悪い、しかしそれは同時に新鮮でもあった。

「だいたいお前は189円」
「136円が三点だからってふざけんなよ」
 微妙に謝りたくなってくるから不思議だ。すみません、136円が三つってそりゃふざけてますよね、すみません。でもね、オマケの人形が欲しかったんだい僕。狙ったのが出てこないからつい三つも買っちゃったんだい僕。そんな僕はだいたい189円。泣けと言われれば泣ける。

「だからストローの方はお付けねえっつってんだろますか?」
 ひい。「だから」って言われてもそれ聞いたの一回目なのに。ストローも付けてくれないで不条理に怒り出すなんてひどいや。ストローの一本ぐらいくれたっていいじゃないのよケチ。そもそも「だろますか?」って一体どこの日本語学校で習ったのよこのインチキ外国人。

「ありがとうございなんて言ってねえよバーカになります」
 素直にありがとうとも言えず憎まれ口を叩くとは何とひねくれた子だ。いいえわかってる。悪いのはあの「給食費事件」よね。ちょっとした誤解であなたは深く傷ついたの。母さんわかってる。あなたは本当は心の優しい子なの。辛いかもしれない、でも取り戻すの。あの日のあなたを。

「お前のそういう千円からムカつくんだよします」
 坊主憎けりゃ袈裟まで憎いというのはこういうことか、私が出した千円札にまでムカつくのだという。できればそういう文句は日銀か造幣局にでも言ってほしいものだ。ああ、ついでに「野口の千円札は顔がのっぺりで気持ち悪い」「自販機で使えない紙幣をわざわざ発行するのは国単位でのイジメだと思う」ということも言っておいてくれ。二千円札は正解か不正解かについて簡潔に答えてもらうとなお良い。

「160円のお返しにいらねえんだよ役立たず」
 いやいやいやいや。いるかいらないかは私の一存だし、何より言うに事欠いて役立たずと来たか。父さん怒ったぞ座れいいから座れ。160円といったら駄菓子屋で悩むのにちょうどいい金額なのだ。これも買おうかな、ああでもこれも欲しいからこっちは一つにしてと、だめだめこれは当たり付きだもんね、じゃあこっちのジュースと、酢ダコさん太郎は外せないし、ええとね、ええと、っていう子供時代の楽しみもわからないような奴はうちの子じゃない出てけ。ぺっ。足し算引き算は学校で覚えるものじゃない、駄菓子屋で学ぶものだ。わかったら涙を拭いて「蒲焼さん太郎」を大人買いしてこい。

 それにしても、精神的にぐったりと疲れたとはいえ面白い買い物ではあった。自分で聞こえる声と外に出る声は違うため、店員も男もお互いにそっくりな声だということに気付いてはいないだろう。となるともしかして、あのステレオを楽しむことができたのは位置からしても私一人だったのかもしれない。店内で人を罵倒する行為にこそ同意はしかねるものの、そう考えると何だかとても愉快なのだった。

「テメエはありがとうございましたもう帰れよ」

 言われなくても帰るわっ。


20041115