哀愁で言うと

 ひととき何だかよくわからないままに駆け抜けた日本語ブームとかいうやつも落ち着いたのだろうか、あまりそういう話を聞かなくなった。これについて何とも面白いのは、普段自分たちが何気なく使っている日本語に対してなぜかブームが生まれるという現象だ。
 これが「タイ語ブーム」ならまだわかる。今日も元気にサワディーカップ、グイといっちゃえワンカップ。これは一体ナンプラー、つけて食え食えテンプラー。
 しかし飽くまで敵は日本語ブームである。日本語のブーム、よく考えるとどうも訳がわからない上に、たとえ曰く正しい日本語というものを啓蒙されたとて誰一人として耳を貸そうともせず、挙げ句「日本語ブームって全然カワイイ」とか言ってのけるのだから、まったくもう全然ムカつくデス。
 こういった日本語がどうのといった動きは何年かに一度の周期で見られるような気がするが、果たして各々その実体は何だったんだろうか。国威発揚か。無駄だ無駄。

 そんな日本語ブームが去ったのだろう今日この頃だが、とはいえ今さらながら自分の中でどうしても気になる言葉がある。言い回し、と表現した方がいいのか、いやなにしろそれは「〜で言うと」というものだ。これほど第三者にとって当てにならない言葉もまた珍しい。
 確かに昔から当てにならない言葉(便宜上、「言い回し」も含む)というものはあった。そば屋の「今出ました」、天気予報屋の「うららかな陽気」、テレビ屋の「まだまだ続くよ」などはその最たるものだ。しかし件の言葉たるやそれすらも凌駕するのではないかと今思う。

 例えばのこと。顔が見えなければ何でもいいが、時代に沿って、ではメールで知りあった人がいるとしよう。何回かやり取りをしている間に、相手の顔を知りたくなってきたのだろう。とは言ってもいきなり会ったり写真を見たりする気はない、まだ自分の中で相手のイメージを作り上げて楽しみたい時期であるらしい。見方を変えるとそれはただの妄想癖とも言うのだが、いやまあそんなことはどうでもいい、とにかくその容貌を知るため、相手に一つ質問を投げかける。
「芸能人で言うと誰に似てる?」
 出た。いやここまではいい。普遍妥当性を伴った共通概念に照らしての説明、ここ自体に罪はない。問題はその後だ。
「そうだなー、芸能人で言うとー、メグ・ライアンかなー」
 関係ない私なんかはもうこの時点でコブシに鉛を仕込んだりするところだが、すっかりメールにのめり込みイメージ先行でいる聞き手に余計な思惑など微塵もない。ただメグ・ライアンを想い、メグとメールのやり取りを続け、メグと冗談を交わしメグにおやすみと告げる。果たして半年後募った期待感を携えて会ってみればもう、メグ・ライアンだかメジロライアンだか釈然としない様相ではあって、ひたすらユーがガットした現実に滅入るしかない。

 芸能人で言うと。この言葉には常に危険が付きまとう。自己申告制の場合にはなおさらだ。
 例えば合板型コンタクトレンズ試着会、略して合コンに参加したとして、相手方メンバーに「松嶋菜々子」がいるという前評判を耳にした場合、あなた方はおもむろにミネラル麦茶でもオーダーしておいた方がいい。きっとそれは「松島トモ子」の間違いだ。マツシマや、おのれはどこのマツシマや。
 例えば友人の紹介でこれから来る男性が「哀川翔」と呼ばれているという情報を告げられた場合、あなたは決してあの鋭い眼光を期待してはいけない。なぜなら彼は「アイカワショウ」と呼ばれているのではなく実はきっと「アーカワイソウ」と常に同情されているダメな人なのだ。

 だが、「芸能人で言うと」ならばまだ救いはある。その対象が芸能人という人間であるからだ。程度の差こそあれ、おそらくは雰囲気が似ているとか、目の数が似ているとか、声が似ていなくもないとか、そういったものを見出し、その芸能人に投影することでわかりやすく説明ができる。いやだから程度の差こそあれ。

 ところが、だ。世の中は広い。それについて稀に変な投影の仕方をする人間がいるからして困ってしまうのである。
「で、面白い人と会いまして」
「へえ。どんな人ですか」
「そうですねえ。例えば」
「ええ」
「コーヒーで言うとブラックみたいな人です」
 申し訳ないが全然わからない。そりゃあなたの中であるイメージは固まっているのだろうが、それについての共通概念を持たないこちらにはまったく想像のしようがない。さてブラックのコーヒーに何がある。甘くない、などという解釈はあまりに安直ではあり、話の内容とも合致しない。だからといって、そこで彼なりに完結した話について「つまりどんな人で」としつこく説明を求めるのも失礼かと思う。なればもう「へへえ」とか「はあ」とか「ほう」とか、ひたむきにハ行を連呼して終わらせるしかない。
 決して悪い人ではなくまた悪気もないのだろうが、一事が万事こんな具合だから、結果的に彼のたとえはどんな悪口よりも人をえぐる時がある。
「そりゃあだって、ゴミ袋で言うと三〇リットルみたいな感じですから」
 三〇リットルが四十五リットルだろうとゴミ袋はゴミ袋。ああ哀しくもゴミ袋。
「空き缶で言うと柔らかーいアルミ缶ですよね」
 アルミがスチールだろうと空き缶は空き缶。ただの缶ではなくわざわざ空き缶としたところに間違ったこだわりを感じる。しかも相変わらず真意がわからない。
「妖怪で言うと『ぬらりひょん』ってところですか」
 そりゃとっさに「妖怪で言うな」と止めなかった私も悪いが、それにしてもぬらりひょんはないだろうと思う。ぬらりひょんさんにどんな生態があるのかいかなる性格であるのかについては確かに私の知るところではない。が、お前は今日からぬらりひょん刑事だ、と言われてやったぜばんざーい、とは一般的にどうしてもならないだろう。彼がいきなり殴られる日が永久に来ないことをただ祈るばかりだ。

 某かで言うと、なる言い回しは本来の用法ならば便利なはずだ。先にも述べた通り、共通概念によってより説明が簡潔になりしかも理解しやすくなる。しかしその説明対象と投影対象があまりにもかけ離れている場合、もしくは片方が共通概念としてイメージを持っていない場合においては、気を付けるべきだろう、下手をすれば余計な軋轢さえ生むこともある。そしてそれは決して他人事ではないのだ。

「アレですね、駄菓子で言うと『よっちゃんイカ』みたいですよ」

 そう、自分の人となりについてそう指摘された私は、何をもってその真意をつかめば良いのか。どうして人を表すのにそこで駄菓子なのか。しかもよっちゃんイカ。他の選択なくして飽くまでよっちゃんイカ。わからない、途方に暮れるしかない。悪口ではないと信じたいところだが、いずれにせよ、色で言うとなんだかとてもブルーなのだった。


20040406