冬の此方

 今年も春一番とやらが猪木のごとく走り去ったようで、少なくとも東京周辺に関しては冬もようやく一段落といった具合であるらしい。個人的には春が嫌いなので何とはなしに憂鬱な気分になってくるが、とはいえ冬の全てが去ったのかと言えばそうでもない。まだまだ至るところで、とある悲鳴を耳にすることができる。
「ちゃっ、つてっ、がーっ」
 何語で驚いてくれたのかよくわからないが、その悲鳴に気付き見れば、何だか手をぶんぶんして顔をしかめている男がいる。
「バチッて。いやバチッて。バチッ」
 何教の布教活動なのかよくわからないが、連れの一人に必死で説明をし始める男。おそらくあの左手の開閉運動でもって「バチッ」を表現しているのだろう。この季節、いきなり一般人に対して「バチッ」と説明せしめる感覚を与えるものは一つしかない。言わずもがな、スタンガンである。
 催涙スプレーに並び護身用品としてのトップセールスを誇る、悪魔の発明スタンガン。電極が相手に触れさえすれば、そこに敵と認めるものはない。快哉われらのスタンガン。今日も行けゆけスタンガン。あっちでバチコーンこっちでバチコーン。くるくるくるくるどーん。エウレカ。エウレカ。ぴー。

 というわけで静電気である。何事もなかったかのように静電気の話である。
 聞けばいわゆる「静電気体質」を自認する人は多いらしく、時には車で、また時にはドアノブで、いずれの場合にも何かを触ろうとした瞬間に指先から放電することで、多かれ少なかれ痛みを感じるらしい。もちろん科学な世の中、それを防止するキーホルダーなども出回ってはいるらしいが、しかしそれさえも無視して放電し続ける強者もいるようで、その場合ひたすら慣れるしかないのだという。

 と先ほどから伝聞形であるのには意味がある。実はこの指先あたりにバチッと来る静電気、私自身は生まれてこのかた味わったことがないのだ。ドアノブに触ろうが車から降りようがそして外気がカラカラに乾燥していようが、今までのところ「バチッ」との付き合いは皆無だ。いくら何でも痛覚ぐらいはまだ大丈夫なので、少なくとも痛みを伴う放電は実際していないのだと思われる。
 確かに、痛いのと痛くないのとどちらがいいかと問われれば当然痛くない方がいいに決まっている。みんなが痛がっている時に一人だけ痛くも何ともない。これほどの優越感などあろうかと、自分でもそう思っていたところはあった。しかし、だ。
「うわ、いてっ。ああもう、静電気だよー」
「わ、あたしもバチッて来た。いたーい」
「なんだよこの静電気防止のやつ、役に立ってねえよー」
「ダメだよそんなんー」
「ちくしょう。わははっ」
「えへへっ」
「うふふっ」
 そして会話に入れないまま黙ってドアを閉め仕方なく空を見上げたりする私。見ろまったく寂しいったらありゃしない。まるで創立記念日に登校してしまった小学生ぐらいの寂しさだ。みんなが静電気による辛さを共有している場において一人だけ仲間外れだ。ハブだ。シカトだ。イジメだ。なんて寂しいのだろう。せんせいに言うたろ。

 さあて、これはまずいぞと本格的に思い始めたのは最近のことだ。思うのだが、人間関係というやつはある辛さや不幸な境遇を共有することで自ずと密接になりやすいのではないか。そう、恵まれた環境を共有するよりも、だ。僕は君の気持ちがよくわかるよ、だって僕だって同じなんだ、だから君だって僕がわかるだろう。そういった口に出すと大変気持ち悪いような心の動きを誘い、人同士を近づけようとするのが共通した辛さ、この場合で言うとそれに相当するのは静電気の害なのだった。
 そう考えてみると自分以外のみんなは静電気のおかげでいつもよりちょっと親密になったようにも見えてくる。心なしかK君のアゴはいつもよりシャクレたように見え、心なしかYさんの化粧はいつもより濃くなったようにも見える。眩しい。みんなが眩しい。心なしか私はいつもより前屈みになり地面と会話をしながらトボトボと付いていくしかない。それもこれもみんな静電気のせいだ。

 こう見えても努力したことはある。放電してやる、その一心をもって(というのも相当おかしいが)セーターを着込み、車の中でさんざんムズムズムズムズやってひたすら蓄電に時間を費やす。俺に触れると火傷するぜ、そんなところまで蓄電できただろうところで、さあ外に出て今ドアを触るのだ。きっと行き着く先は阿鼻叫喚、ある種の覚悟をもって、さあ審判の門となるドアを今。ちょい。あれ。ちょい。おや。ぺた。ぺたぺた。ぺたぺたぺたぺ
「ベタベタ触るなボケ」
 もうドアに舌を挟んで死んでしまいたくなるのだった。

 それならばもう、いっそのこと「痛いフリ」を決め込めばいいのではないか。しかしそれは、嗚呼、浅知恵にも過ぎるものだった。なんとなれば、大体喰らったことのない痛みなのだから程度がさっぱりわからないのである。
「静電気ってさー、痛くてヤだよねえ」
「あー、えー、うん。まあ痛いというか、うん痛い」
「人によって違うみたいだけどさ」
「え、あは、うん。個体差ってやつだね。うん。それが答えさ。今のはほれ、『個体差』と『答えさ』をこう何て言うのか、掛けた、っていうのかね、わは」
「どのくらい痛い?」
「あー。そりゃあの、え、ゲバイロマニマニを、モリパッツーしたぐらい痛い、かな」
「はあ?」
「いやその何だろうな、こう、長い間『おじいちゃん』って呼んでいた人が実は『おばあちゃん』だったと判明した時のあれに似ただな、つまり」
「何言ってんの? そういえばさ、なんか防止策とってる?」
「えー、もちろん。そりゃもう、あの、下敷きをこすり過ぎない」
「は?」
「え、あと、ヘンゼルから見たグレーテルについてあまり深く考え過ぎない」
「え?」
「あ、じゃ、目的もなく南南東に歩き過ぎない」
「もういい」
 どうして指先から放電しないだけで、こんな寂しくて惨めな思いをしなければならないのだ。もういっそスタンガンを飲み込んでしまいたくなる。

 静電気による痛みを味わってみたい、そんなことは本当に困っている人から見れば馬鹿げたものなのかもしれない。しかし「この辛さは感じてみないとわからない」と言われるのならばまさにその通り、経験してみなければ痛みも辛さも永久にわからない。
 そう考えてみると、私(を含む、静電気と無縁な人)は人間として生きる中で少なくとも一つ、大切な経験を逃していることになる。大げさに聞こえるかもしれないが、こんな他愛ない経験一つが大きく歯車の勢いを変える場合だってあり得るのだ。

 もしかすると、だ。もしかすると、「ピリッ」として「バチッ」と決まるような素敵な文章がいまだに書けないという裏側には、こんな事実が潜んでいたりもするのではないか。ならば生き方を変えるのはそれに気付いた今しかない。まさに今、静電気ならずも身近なところで「バチッ」を経験しておくべきではないのか。さてどれ、じゃあ手始めに部屋のコンセントに針金を、こうして針金を、突っ込ん


20040219