2007/8/19 年間第20主日集会祭儀における鈴木真司祭の説教

 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。むしろ分裂だ」

イエスらしからぬこれらの言葉に、この箇所を読むわたしたちはどうしても動揺してしまいます。この言葉の背景には、終末時の裁きの暗示であるとか、初代教会の迫害といった状況の影響があると言われますけれど、これはイエスご自身の言葉というよりも、要はイエスの使信に対しては中立はありえない、従うか否かという選択に迫られている共同体の状態を説明した言葉としてとらえる必要がありそうです。

 実際にわたしたちは、現代社会の中で福音的価値観を生きようとすることが、場合によって大きな困難を伴うことを様々な場面で体験しています。ある面で、人間社会における常識的な価値観と、福音的価値観が大きく異なっている、ということなのでしょう。

そんな状況の中で福音を生きようとするわたしたちにとっての大きな誘惑は、「しかたがない」と人間的常識に流されてしまうことではないでしょうか。「人間なんだから、しかたがない」「理想を言っていたらきりがない」「わかっちゃいるけどそうはできない」・・などなど。九十九のために一匹を犠牲にすることは、人間社会ではむしろ正しいとされてしまうことです。

しかし、神の目から見たらそれは「福音」では決してありえない。最近ではどこかの大臣が、決して言ってはならない「しかたがない」を言っちゃってやめていきましたけど、わたしたちにとってもその「しかたがない」は常に近くに置かれている、とても容易にそちらに流れてゆける誘惑なのだと思います。

とは言うものの、先ほども言ったように福音を生きることはわたしたちにとってそんなに簡単なことではありません。「これはとっても無理だ」「やっぱり人間の力には限界がある」と自らの無力さに日々直面せざるを得ないのもまた、事実です。しかし忘れてはならないのは、福音が言わば『神様のものさし』である以上、それを可能にしてくださるのもまた神ご自身である、ということでしょう。

今日の箇所で「火が燃えて」と「それが終わるまで」とありますが、これはともに受身形になっているのだそうです。つまり、イエスにおいて火を燃やすのも、またイエスの洗礼、つまり受難を終わらせ完成させるのも、実は神ご自身であることがここで強調されているのです。

わたしたちが福音を生きることを可能にしてくださるのは、神ご自身です。問題はわたしたちの側に、それを生きようとする気があるかどうかです。「まあ、しかたがない」と人間的常識に流されてしまわずに、いつも神の助けを信じつつ、何が神ののぞみであるのかを見つめながら、イエスに従って歩んでゆくことができるよう、ともに祈りたいと思います。

ルカによる福音(ルカ124953

〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕49「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。50しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。51あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。52今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
53父は子と、子は父と、
母は娘と、娘は母と、

しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、

対立して分かれる。」

地上に火を投ずる