王であるキリスト

マタイ(25:3146

31「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。32そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、33羊を右に、山羊を左に置く。34そこで王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。35お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、36裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』37すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。38いつ、旅をしでおられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。39いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』40そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

41それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。42お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、43旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』44すると、彼らも答る。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』45そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』46こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

2005.11.20 王であるキリスト 鈴木真司祭の説教

 

今日は年間最後の主日であり、「王であるキリスト」の祭日です。典礼の暦(こよみ)の上ではこの週で一年が終わり、翌週の待降節第一主日からまた新たな一年が姶まることになります。

「王であるキリスト」というタイトルには、深い意味が含まれています。もともと「キリスト」とはギリシャ語で《メシア》を意味する言葉で、《メシア》はヘブライ語で“油注がれた者"という意味です。”油を注がれる“とは神から特別に選ばれて任務を受けるしるしで、旧約聖書では王を表わす言葉でした。「王」とはあくまで神から選ばれ、権力をむさぼるのではなく、神との結びつきにおいて民のために命がけで働く者、という位置付けをしていた旧約の民は、人間の王たちが堕落していってしまった後も、「神は真(まこと)の王を世に送って下さるに違いない」という希望を捨てませんでした。《メシア》が“救い主"の意味で使われるようになったのは、そのような背景からでした。これから主の降誕を祝う新たな年の季節を迎えるにあたっての一年のしめくくりの日に、人間のどんな王とも違う「真(まこと)の王であるキリスト」を見つめることは、キリストがどのようなお方であるのかを改めて思い起こすと同時に、神がキリストを世に送って下さったその意味を深く黙想することにもなるでしょう。今日の聖書の言葉にも、その大きなヒントが置かれています。今日の福音の箇所は、有名な『最後の審判』の場面でもあります。ただしもともとは、「小さい者の一人にしたことはすなわちイエス御自身にしたこと」という単純な話でした。マタイ福音書の著者はそれを逆のパターンも織りまぜた上で、世の終わりの時の裁きのシーンに仕立ててしまったのです。従って、主なポイントは前半にあると言ってもいいでしょう。「神に祝福された」人たちは、「王」の言葉に『主よ、いつわたしたちはそんなことをしましたか?』とこたえます。彼らが「最も小さい者の一人」に手をさしのべたのは、純粋な《憐れみの心》からだったのです。《憐れみ》という言葉は、聖書では【神の人間に対する深い愛の思い】を表わすものです。神がどれほど一つ ひとつのいのちを大切に思って下さっているか、そのことを伝えるためにイエスは自ら「小さい者」になられ、「仕える者」となられました。だからこそ、「最も小さい者の一人」にしたことは、イエス御自身にしたことになるのです。キリストの十字架を通して示された神の深い《憐れみ》を知る者は、自らもその《憐れみの心》ゆえに「最も小さい者」へと向かいます。創世記では「神は人間を御自分に似せて創られた」とありますが、これはそのことを言っているのではないでしょうか。御自分が創られたいのちのいたみ 苦しみに決して無関心ではいられない神の《憐れみ》の思い、その同じ【心】が、神の似姿として創られた人間にも与えられているのです。ちなみに《憐れむ》とは“はらわたがよじれるような思い”という意味で、それがどれほど激しいものであるのかが伺えます。福音書では一部の例外を除いて、この言葉は神かイエスが主語の時にしか使われませんが、その例外の一つが実は『善いサマリア人』のたとえです。神が与えられた《憐れみの心》が人を愛する原動力になるということが、ここに示されているのではないでしょうか。先遇、『タラントンのたとえ』の箇所が読まれました。神は人間の目から見たらとてつもない価値のものを与えられている、ということが示唆されていましたが、それはこの《憐れみの心》であるとも言えるでしょう。人を思いやることのできる心、人のいたみ 苦しみや喜びが感じられる心、その心を一人でも多くの人に向けて「使う」ことによって、その《憐れみの心》は限りなく広がってゆきます。「王」であるキリスト御自身が「小さい者」「小さい者に仕える者」になられ、神の限りない愛を示されました。そのキリストに従って歩むわたしたちにも、想像以上の大きな恵みである《憐れみの心》が与えられています。そしてその心をわたしたちもまた、より「小さい者」へと向けて行動することが神ののぞみであるのです。わたしたちに与えられた恵みの大きさと、それを使う方向性が常に示されていることに、御一緒に信仰の目を向けたいと思います