わたしは道である。


(ヨハネ14:112)

〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕1「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。2わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。4わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」5トマスが言った。「主よ、どこへ行かれのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」6イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。7あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。8フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。12はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」

 

2008.4.20復活節第5主日 集会祭儀 鈴木真司祭説教

 

「わたしは道であり、真理であり、命である」・・聖書の中でもとりわけわたしの大好きな言葉で、わたしの司祭叙階式の福音の箇所に使ったほどです。実はこの言葉が好きになったいきさつがあります。神学校に入って二年目の頃、ある方にキリスト教的なものをプレゼントしようと思い(何のお祝いかは忘れてしまいましたが・・)、上智大学の四ツ谷キャンパスに通っていたので、近くのイグナチオ教会の売店に立ち寄りました。店内を見回していると一つの鋳物の十字架が目に留まりました。手の平位の大きさで、表面の縦横にアルファベットで文字が書いてありました。そのデザインとバランスがとてもいい感じで、一目で気に入りました。文字はドイツ語らしく「ICH BIN・・」“わたしは・・?”そこまでしか分かりませんでしたが、たぶん聖書の言葉だろうと思って買って帰り、ドイツ語ができる同級生に見せてみると、「わたしは道、真理、命」と書いてあると言うのです。ヨハネの箇所だ!と思い、その箇所を調べてしばし黙想しました。

 「わたしは道」・・まずすごい言葉だと思いました。イエス御自身が「わたしは道だ」と言われたのです。自分は到達点ではない、父である神に至る「道」に過ぎないのだ、と。【“わたし”に留まるのではなく、わたしを通って父である神に目を向けよ】・・御自分を言わば《無》とされたイエスの究極の言葉だと感じました。「わたしは真理」。「真理」とは特にヨハネ福音書では神御自身の特性を表す言葉です。イエスの存在そのものが、父である神がどのようなお方かを表している。
 「わたしは命」・・「いのち」という言葉もまた、ヨハネが特に意識して使う特別な言葉です。肉体を維持するこの世の生命ではなく、父である神との結びつきにおいて生かされるいのち、それはこの世限りのものではなく永遠に続く“神とのきずな”であるのだ、と。イエスというお方が、その生き様がそれを示して下さっている。たった一行のこの言葉に計り知れない深さを感じました。言わばわたしたちとイエス・キリスト、そして父である神との関係を見事に一言で言い表している箇所なのだ、と思いました。それからその十字架がますます好きになり、何かの折に色々な人にプレゼントしました。今でも売っているでしょうか。実は自分のためには買わなかったものですから、わたし自身は持っていません。
 
 時が経って自分の司祭叙階式の準備をしている時、福音の箇所は最初はルカー章のマリアの言葉「お言葉通り、この身に成りますように」にしたいと思っていました。その時の自分の心情にぴったりだと思ったからです。しかし色んな人から「それってシスターの誓願式みたいだよ、イエスの言葉の箇所の方がいいんじゃない
?」と言われ、え〜どうしよう・・と考えていた時、あのヨハネの箇所が浮かびました。
 「わたしは道である」・・わたし自身もそうであれ、と言われているように感じました。“自分”ではなく「神」に。自己を主張するのではなく、人と共にいつも神へと目を向けること。これは【回心】の基本ではないか。司祭として働くこと“自分”を人に見せるのではなく、「神」を、その計り知れない大きな愛を人に伝え、人と共に味わうことなんだと気付かされました。
 無論わたしたちは自我を持って生きていますから、イエスのように自分を《無》にするのは時に容易なことではありません。自分を主張したい、自分を認めて欲しい、自分の思い通りになって欲しい・・。でもそんな“自分”を通して神御自身が働かれていることを感じる時、わたしたち自身も「道」であることに気付かされるのではないでしょうか。わたしたちが意識するしないにかかわらず、この「わたし」を使って神様は沢山の人に御自身を表されているのです。これもまた、まさに【キリストの復活】であると言えましょう。キリストがわたしたちの内に永遠に生き続けて下さっているからこそ、わたしたちは【神の愛】を表す道具として使っていただけるのです。神は時々意表をつく使われ方をします。わたしたちの側が自分もまた「道」であることに気付いて行動する時、そのすべてが【神御自身の宣教】となるのです。「わたしは道だ」と言われたキリストにならうことができるよう、御一緒に祈りましょう。