「見ないのに信じる人は、幸いである。」

 


ヨハネ20:1931

19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20そう言って手とわき腹をお見せになった。弟子たちはそれを見て喜んだ。21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22そう言ってから彼らに息を吹きかけて、言われた「聖霊を受けなさい。23誰の罪でもでも、あなたがたが赦せばその罪は赦される。だれの罪でもあなたがたがゆるさなければ、赦されないまま残る。」

24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25そこでほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

 

2008.3.30復活節第二主日・集会祭儀 鈴木真司祭 説教

「見ないで信じる者は幸い。」毎年復活節第二主日、つまり復活の主日の次の日曜日には、ヨハネのこの箇所のトマスの話が読まれます。毎年この箇所を読むたびに、「見る」ということについて考えさせられます。わたしたち肉眼が見える人間は、何かと肉眼で見ることに頼って生きています。逆に目の見えない方には、肉眼で見ている人間にはない感覚が与えられているとも思うのですが、肉眼に頼る人間にも、実は見ているつもりで《目に入っていないこと》というのは少なくないのではないでしょうか。

何かの折に話してきたことですが、わたしはちょうど13年前から横浜の関内駅周辺の野宿者のところを回る「木曜パトロール」という活動に参加しています。文字通り木曜の晩に回るのですが、グループ自体には宗教色があるわけではなく、いわゆる市民ボランティアのグループです。80年代に横浜の大通り公園で野宿者が襲撃されて殺された事件があったのですが、それをきっかけにあるプロテスタントの牧師さんが始めた活動だそうです。そんな経緯もあって集まる人たちはクリスチャンが多いのも事実です。横浜市は歴史的事情や街の規模などの理由もあって、野宿者(ホームレス)の数がとても多く、市内だけで700800人はいるのではないかと思われるほどですが、関内駅周辺だけでも100人前後の人が野宿生活をしています。13年前わたしは山手の教会にいましたが、山手の信徒の方でメンバーの人がいて、そのつながりで1995年の一月に初めてパトロールに参加しました。とにかくまずショックだったのは、こんなに大勢の人が外で寝ているという事実でした。関内駅のすぐ近くに市庁舎の建物があるのですが、当時その回りだけで40人ほどの人が段ボールを敷いて寝ていました。夜の関内なんて何度となく歩いているのに、今まで全くその人たちが《目に入っていなかった》のです。いや、夜の関内を歩いている時なんてたいてい酔っ払ってましたから、そのせいかな・・などとも思ったのですが、とにかく“ここにこんなに大勢の人たちが寝ていたのか・・”とただひたすらに呆然としたことを今でも思い出します。

「目線」という言葉がよく使われますが、「視線」とはちょっとニュアンスが違っていて、どちらかというと「視点」に近いのかな、と思います。「目線を合わせる」「目線を変える」など。以前にも話しましたが、「目」は聖書では心の向きを表わすシンボルです。つまり「見て」いてもそこに実際に意識が向いていなければ、本当には「見えて」いない、心にまでその見ているものが入っていない。そんなことって、実は結構多いのではないでしょうか。逆に、肉眼で見えていなくても、大切なことに心が向いていればそれを感じることができる。聖書では【キリストの復活】とはまさにそういうものだ、と伝えます。ヨハネ福音書が編集されたのは紀元90年代、ある意味で直接の「復活」という体験をした弟子たちはもう一人も生きていません。その次の世代によって編集された福音書には、「見ないで信じる」ということが一つの大きな課題でもあった、と言われています。しかし先週も話したように、【キリストの復活】とは出会いであり個々人の体験です。たとえ肉眼では見えなくても、人や出来事との出会いを通して、あるいは聖書のみことばを通して、わたしたちは日々キリストと出会っています。そしてキリストが「共にいて下さる」ことを感じることができるのです。そこで何がポイントになるのかと言えば、〈心の「目線」〉がどこを向いているかでしょう。キリストに意識が向いている時、もっと言えばキリストの示された“福音的価値観”に意識が向いている時、そしてその価値観を持って行動しようとする時、わたしたちは見えないキリストがそこにおられること、共にいて下さることを感じられるのではないでしょうか。「二人三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)と言われたイエスがいつも【共にいて下さる】ことを、御一緒に黙想致しましょう。