「求め」にこたえる《神の思い》

      

ルカによる福音(ルカ181-8

1〔そのとき、〕イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。2「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。3ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。4裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。5しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」6それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。7まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。8言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

 

2007.10.21年間第29主日 集会祭儀 鈴木真司祭の説教       

 

 今日の福音の箇所のたとえに出てくる「裁判官」、すごいですね。『神など畏れないし、人を人とも思わない』・・現代では考えられないことですが、聖書の時代にはこんな悪徳裁判官がけっこういたようです。裁判の不正などは日常茶飯事だったようで、しかも町の有力者が必要に応じて裁判官になるケースもしばしばで、その場合はことさら自分たちの利益が裁判においても優先されたことでしょう。

 

 また、律法ではやもめや孤児、寄留者など社会的に弱い立場に置かれた人々を守るようにと定められていたにもかかわらず、実際には彼らが社会の中で食い物にされていました。イエスの時代、ローマの支配によるユダヤ人たちの民族主義の高揚から、「異邦人」が必要以上に差別されていたことも、皮肉な現状だったのかもしれません。

 

 古代の徹底した男尊女卑的社会において、「やもめ」は特に社会的弱者の象徴でした。彼女の武器は、ただただしつこく求めることしかありません。ましてや、とイエスは言います。「ましてや、神は」と。人間の、しかも悪徳裁判官でさえ、しつこく頼めば仕方なしに取り合ってくれる。ましてや、一つひとつのいのちをこよなく愛される神が弱い者の訴えを聞いて下さらないはずがあろうか、と。

 

 福音書ではよく「求めなさい」と言われます。実際わたしたちはミサの中で、また個人の祈りの中でも神様にお願いばかりしているでしょう。「ああして下さい、こうして下さい、ああなりますように、こうなりますように」・・という具合に。そのこと自体は悪いことではないし、おおいに願え・・というのが今日のたとえのポイントの一つですが、先週の福音の箇所にもあったように、わたしたちはともすると、その願いに神が応えて下さっていることを見過ごしがちになるのかもしれません。

 

イエスは「求めよ」と言われると同時に、「神はあなたがたが願う前から、あなたがたに必要なものをご存知」だ(マタイ6:8)、とも言われます。だからこそ、聞いて下さるにちがいない神を全面的に信頼せよ、と。それがこのたとえのもう一つのポイントだと思います。わたしたちは《自分の思い》で神に色々と願うわけですが、同時にそれに応えてくださっている《神の思い》にも目を向ける必要があります。

 

もしかすると、と言うか、しばしば神はわたしたちの想像をはるかに超えた形で、しかもわたしたちが願う前から、それに応えるわざをおこなっておられる場合が少なくないのですから。そうでなければ、「祈り」はただわたしたちの神に対する“自分の欲求を満たしたいがための求め”になってしまうでしょう。神がそれに確かに応えて下さっている、その神からの働きかけも「信仰」の目で見なければ、見過ごしてしまいがちなのです。

今日の福音の最後にある、一見矛盾するようなイエスの言葉には、そのことに対する警告が込められているように感じます。「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」わたしたちにとって「信仰」とは、ただ自分の思いを神にぶつけることではなく、そのわたしたちをこよなく愛して下さる神の思いがどこにあるかに目を向けることでもあるのだ、と思います。そして祈り求める中でその視点を持つ時、実は自分には想像もしなかったような形で、すでに神が応えてくださっていたことにも気付かされるのではないでしょうか。

 

自分や、そして人のために祈る中で、同時に神が行われているおどろくべきわざに目を向けることができるよう、共に願いたいと思います。