九十九匹と一匹の喩え

「見失った羊」のたとえ(ルカ15-1-6)
1徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。3そこで、イエスは次のたとえを話された。4「あなたがた中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。5そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、6家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。
2007.9.16年間第24主日集会祭儀勧めの言葉 鈴木真司祭
「百匹の羊のたとえ」、わりと有名な箇所です。マタイにも並行箇所がありますが、このルカとは多少位置付けが違う編集になっています。
羊という動物は、日本で暮らすわたしたちにはあまりなじみがありませんが、中東では日常的な存在で、このたとえも当時のパレスチナ地方の人々にとってはとても分かり易いものだと言われています、が・・。イスラエルの民はもともと半遊牧民族です。彼らにとって羊は単なる家畜以上に、家族であり同時に財産でもあった、といいます。また羊はとても弱い動物で、群れからはぐれると生きてゆけない。ここでイエスが「見つけ出すまで捜し回らないだろうか」と言っていますが、これは原文では《当然捜しに行くでしょう、捜しに行かないわけがないでしょう》といった強い調子の文章なのだそうです。
今でも2000年前とほぼ同じような、羊を飼いながら牧草地を移動して暮らすベドウィンという人々がいるそうです。歴史的経緯から宗教的には殆どがイスラム教徒だそうですが、ある人がそのベドウィンの人に聞いてみたそうです。「聖書にはこう書いてあるけど、あなたがたは百匹の羊のうち一匹がいなくなったら本当に捜しに行きますか?」答えはなんと「ノー」だったそうです。99匹がやはり大切、99匹を守るためにはあえて一匹は犠牲にするのだ、と・・。あれあれ、聖書と違うぞ・・とがっかりしたのですが、かたやイエスは「捜しに行くのは当たり前」と言い、人間は「その一匹は大勢のために犠牲にする」と言う。実はここにこそ、わたしたち人間の常識的な価値判断と、神様の一つひとつのいのちを見る見方との大きな違いがあるように思います。
「民主主義」というととてもいいもののように聞こえます。まあ実際いいものなのでしょうけれど、民主主義の大原則は《多数決》です。過半数、つまり半分以上の人がOKの方向に行こう、というものです。その原則からするならば、99がOKならば何の問題もありません。でも、神様のものさしに《多数決》はありません。たった一つが神様には問題なのです。
良いたとえかどうかわかりませんが、例えば教会のバザーに百人のお客様を招待してアンケートをとったとします。99の人が「満足した、良かった」と書いたなら、そのバザーは大大成功でしょう。そう書いた人が90人だって80人だってまぁ《成功》です。70人だったらちょっと考えなきゃいけないかもしれませんが、でも《失敗》ではないでしょう。
しかし、神様から見たら、たった一人の人が「知り合いも誰もいないし、寂しかった」と書いたら、それだけでそのバザーは大大失敗なのです。場合によっては99よりも1のほうが大事と言う、人間の常識を根底から覆す神のはかりしれない愛の大きさ、そこでは《多数決》はまったく無残に敗退し、民主主義が福音的価値観とはイコールでないことも明らかになってしまいます。一つひとつのいのちが神にとってどれほど大切か、それは人間の常識的価値観をはるかに超えてしまうものなのです。
他方で、じゃあ「99」はどうするんだ、ということもよく言われます。野原に置き去りかよ、と。でも「99」は迷っていない。《迷っていない》ということの重大さに「99」は、えてして気付かないのです。だから「不平を言う」。自分たちはどうでもいいのか、と。そしてそれは与えられていることに気付かず自分の手柄だと思ってしまった放蕩息子の兄の「不平」であり、また今日の箇所で罪人と食事をするイエスに対して文句を言うファリサイ派や律法学者達の「不平」でした。律法をきちんと守っている自分たちを誇ってしまった彼らは、《罪人》というレッテルを自分たちが人々に貼っていることすら気付いていないのです。自分たちもまた、神様の前では等しく《罪人》であるはずなのに。わたしたちも「自分は正しい」と思い、それに固執してしまう時、同じことが起こります。何が本当に「正しい」のか、それは神様だけが知っておられることなのですから。
人間には想像もつかないほどの大きな神の愛がわたしたち一人一人に向けられている、そのことを知る時、そのことに本当に気付く時、そのことを様々な出来事の中に感じられる時、神にとって同じく大切な者どうしとしてわたしたちもお互いに自然に愛し合えるのでしょう。