北海道の荒野のできごと

ルカによる福音 (ルカ10―25〜37)
25〔そのとき}ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」26イエスが・「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、27彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」28イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。29しかし彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。30イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコヘ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。31ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。32同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、34近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」36さてあなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに難われた人の隣人になったと思うか。37律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
2007.7.15年間第15主日 集会祭儀において代読された鈴木真司祭の説教
有名な『善きサマリア人のたとえ』といわれる箇所です。ここでイエスに質問しているのは「律法の專門家」です。当時のファリサイ派や律法学者たちにとって、律法とは義務に他なりませんでした。果たさなければいけないもの、しなければならないこと。しかし、宗教に《義務》が入り込むと、知らずのうちにそれは受身の姿勢、つまり“守り''に入ってしまうことになります。それさえしていればいい、つまり律法さえ守っていれば救われる・・と。当時「律法主義」と言われるものが陥った一つの形でした。だから「自分の隣人って…誰?」という発想になってしまうわけです。
でも本来、信仰とは義務では有り得ません。むしろそれは神の大きな愛に対する、人間の側からの【リアクション】なのです。神に愛されていることに気付くならば、自然と自分から能動的に行動できます。「律法」も初めはそうしたものでした。「出エジプト」というユダヤ人にとっての大きな救いの体験がそれを生み出したわけですが、次第にその律法の大元は忘れられていきました。
わたしたちはこの箇所を読む時、とかく「サマリア人」に自分を重ねがちになるのではないでしょうか。自分も何か大きな犠牲を払って人を助けなければいけないのでは・・といったように。しかしむしろ、自分が強盗に襲われた人だったら・・と考えたほうがわかりやすい気がします。
この『善きサマリア人』の箇所に出会うたびに、ある話を思い出します。わたしの先輩で札幌教区の神父さんの体験で、ちょうど10年前に聞いた話です。あるときその神父さんは車に乗って、北海道の地平線が見えるような原野の真っ只中を走っていたのだそうです。突然車が止まってしまいました。降りてみると車の後ろにオイル漏れの後が点々とついていた。エンジンオイルが漏れて空になってしまったのです。携帯電話はまだ普及していない頃で、人影も見えず、その神父さんは途方に暮れていました。一時間待ち、二時間待ち・・誰もやってこない。日が暮れてきて、今日は車の中で寝るしかないか・・と覚悟した頃、ようやく一台の車がやってきて止まり、見知らぬ中年男性が現れて、こう言ったそうです。「やっぱりだ。思った通りだ。」・・訳を尋ねてみると、地面にオイル漏れの後を発見したその人は、このあとをたどっていけば必ず車がエンコしているに違いない・・と、その人に車に牽引してもらってようやく最寄のガソリンスタンドにたどり着いたときは、もう夜も更けていたそうです。その神父さんは何かお礼をしないと・・と思い、一万円札をティッシュで包んで渡そうとすると、その人は怒って言いました。「そんなものは受け取れないよ。金が欲しくてやったわけじゃないんだ」神父さんも出した建前引っ込められず、「いや、気持ちですから受け取ってください」「いらないよ!」「いや、でも・・」なんていう押し問答が続いた挙句、その人はこう言ったそうです。「じゃあ、わかった、こうしよう。あんたがこれから同じような出来事を見つけたら、必ずその人を助けてやってくれ。それでチャラだ。」・・その言葉を聞いた途端、その神父さんの頭に『善きサマリア人』の最後のイエスの言葉が浮かんだ、と言っていました。「行って、あなたも同じようにしなさい」・・そういうことだったのか、と初めてこの聖書の言葉が「腑に落ちた」んだそうです。ちなみに最後まで自分がカトリック司祭であることは言い出せなかったそうですが・・。わたしたちは自分が人から助けられたこと、支えられていることを考えたら、そして究極にはどれほど神から愛されているかに目を向ければ、このたとえがよりわかりやすくなるのではないでしょうか。そして、神の愛を感じる時、いつも誰かに助けられ、支えられていることを感じ、思い出す時、キリストはいつも私たちの耳元で言っておられるのです。「行って、あなたも同じようにしなさい」・・と。「隣人とは誰?誰に関わればいいの?」という発想ではなく、どんな時にでも困っている人に対して自分から「隣人」となることができるよう、共に祈りたいと恩います。