主の昇天

      

ルカによる福音 24:46〜53
主の昇天 集会祭儀のための鈴木真司祭説教メッセージ

 復活されたキリストが「天に昇られた」ということを可視的、つまり目に見える形で語っているのは、実は厳密に言うとルカ福音書だけです。マルコの最後には似たような文章がありますが、多分に抽象的であり、しかもマルコ16章9節以下は後の時代に書き加えられた部分であるというのが通説ですから、ルカ以前の伝承にはなかった表現であると言われています。
 福音書編集以前のより古い伝承を見ますと、それとは別に〈高挙伝承〉といわれるものがあります。これは「復活されたキリストは神によって高く挙げられた」というもので、一番古いものはフィリピ書にある「キリストは人間の姿で現れ、十字架の死に至るまで自分を低くして従う者となった。それゆえ神はキリストを高く上げて、すべてにまさる名をお与えになった」(フィリピ2:6〜9)という部分、パウロ以前から存在していた信仰告白ではないかと言われています。
 ペトロの手紙などを見ると「キリストは天に昇って神の右の座におられます」といった表現が出てきます。他方で、旧約聖書には〈偉大な人物が神によって天に上げられた〉という表記が見られます。有名なところでは、預言者エリヤが火の車でもって天に迎えられた・・・(列下2:11)などですが、こうした旧約的思想に高挙伝承をミックスさせて、ルカ的な表現で描いたのが「キリストの昇天」、と言っていいでしょう。 ルカは(福音書の続編として書かれた使徒言行録も含めて)イエスの時代から使徒たちのじだい、つまり教会の時代へとはっきり分けようとするがゆえに、「復活」「昇天」「聖霊降臨」を段階的に描きます。
「昇天」でもってイエスは一旦天に昇ってもらって、さあこれからは聖霊が降って使徒たちの宣教が始まる・・といった感じなのですが、むしろそれぞれの要素を弟子たちの【復活体験】というものの中に再び置いて見つめてみると、様々なことがわかってくるようにも思います。


 「イエスが天に昇られた」・・それは矛盾するようですが、むしろイエスが“目には見えないが不思議な形でいつも共にいて下さると感じる”体験だったと言えます。52節で「彼らは大喜びで・・神をほめたたえていた」とありますし、使徒言行録では、目に見えないイエスが弟子たちにたびたび話しかけられます。言わば“この世的でない”形でイエスが「共にいて下さる」ことを、弟子たちは感じていました。
 47節「罪のゆるしを得させる悔い改めが、その名によって・・宣べ伝えられる」・・これは神ご自身がキリストを通して宣べ伝えて下さるという意味です。宣教の主体はあくまで神ご自身であり、キリストの十字架によって示された生き方が、罪からの解放を宣言するものであることを、弟子たちは体験しました。「エルサレムから初めてあなたがたはこれらのことの証人となる」・・“証人になれ”“証(あかし)しろ”とは言われません。キリストの復活に触れた者の存在自体が、既に「証人」つまり【あかし】となっているのです。キリストの触れた者を通して、神ご自身が、今度は他の人をキリストに触れさせて下さる・・これもすなわち弟子たちの《復活体験》であり、今日のわたしたちも全く同じ体験を日々している、と言っていいでしょう。
 わたしたち自身もキリストの十字架によってゆるされ、その生き方へと招かれ、わたしたちを通して、神ご自身が【宣教】させている。それこそが、わたしたちにとっても“キリストが共にいて下さる”しるしに他ならないのです。

 今日の箇所の最後に、天の昇られるイエスが弟子たちを「祝福」され、弟子たちは大喜びで神を「ほめたたえていた」とあります。実はこの二つの言葉はエウロゲオーという同じギリシャ語の単語で、もともとは“喜び”を意味する言葉だそうです。「祝福」とは神の喜びのしるし、つまりその人の存在自体を神が喜んでおられるしるしなのです。そしてそのことを感じた人は、まさに喜びに満ちあふれ、自然に神をほめたたえるでしょう。だから「祝福する」と「ほめたたえる」とは同じ言葉なのです。これほどまでにわたしたちを愛してくださる神へと心を向けながら、その愛を示して下さったキリストがいつも共にいて下さることを、ご一緒に感じたいと思います。