ヨハネによる福音 10:27〜30
2007.4.29復活節第4主日 集会祭儀 鈴木真司祭説教 

 毎年復活節の第4主日には、ヨハネ福音書の10章からの箇所が読まれることになっていますが、
このヨハネ10章は全体として、イエスとわたしたちとの関係を「羊」と「羊飼い」にたとえています。
わたしたち日本で暮らす者にとっては、正直あまりピンときませんが、当時のパレスチナ地方に住む
人々にとっては、両方とも身近な存在だっただけに、とてもわかりやすいたとえだったのでしょう。
 「羊」はとても弱い動物で、常に「羊飼い」に守られなければ生きてゆけない存在だったそうで、逆に羊のほうも、生きてゆくために本能的に自分を世話してくれる「羊飼い」の「声」を「聞き分け」た、と言われます。
 「わたしは(わたしの)羊を知っている。」この「知っている」と訳された言葉は、単なる認識ではなく、“すべてを知り尽くしている”という意味なのだそうです。 神はわたしたちの“すべてを知り尽くして”おられるのです。
 同じく10章の3節には、「羊飼いは羊の名を呼んで連れ出す」とあります。聖書において「名前」とは、それを持つ者の本質をあらわすもの、とされます。たとえば、『主の祈り』の中に「御名が聖とされますように」とありますが、これは神様の「名前」つまり神の本質、神がどのようなお方であるかが、人々に知られますように、という祈りです。
 わたしたちにとっても「名前」は自分自身であることをあらわすものだと言えると思いますが、「名が呼ばれる」とは、その名を持つ者そのものが、丸ごと、「呼ばれて」いることを示しているのです。なぜなら、「呼んで」おられる方は、呼ばれている人のすべてを知り尽くしておられるからだと言えるでしょう。

「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。」わたしたちはそんな神様からの呼びかけにちゃんと気付くようにつくられている、と言うのですが・・・本当かなぁ、と思ってしまいます。たびたびわたしたちは神様の呼びかけを聞き逃してしまっているのではないか・・・と。
 しかしそれが《キリストの声》だと考えると、なるほどとも思います。 キリストと出会った人には、何が福音の沿った歩みであるかが、常に知らされている。わたしたちの側に求められているのは、それに「聞く」事と「従う」ことなのです。

 「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大である。」この「父がわたしにくださったもの」とは、「羊」を指しています。「すべてのものより偉大」とはどういうことでしょうか。直訳文で見ると“より大きくある”ということだそうです。つまりそれは神にとって何が【キリストに従って歩む】ことなのか・・・?と。でもそんな時わたしたちを“知り尽くして”くださっている神様に信頼して、まずは「聞いて」みましょう。わたしたちが「聞こう」とする時、必ず「従う」べき道がどこかに示されていることに気付かされます。わたしたちには、「声を聞き分ける」耳がきっと与えられているのですから。
 いつでも神の大きな愛を信じて、常にわたしたちの名を呼んでくださっている神の呼びかけに、従うことができるよう祈りたいと思います。