「お言葉ですから」

ルカ5:1〜11
漁師を弟子にする(マタ4:18-22、マコ1:16-20)
5−1イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群集がその周りに押し寄せて来た。2イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。3そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。4話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。5シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。6そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。7そこで、もう一そうの舟にいる仲問に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。8これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。9とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。10シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」11そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。
2007.2.4年間第5主日)鈴木真司祭の説教
今日の福音の箇所は、わりに有名な『ペトロの召命物語』の部分ですが、ルカ福音書では他の福音書と違った独自の形でそれが語られています。一番の特徴は「大漁」という出来事ですが、ヨハネ福音書の21章五節に似た話が出てきます。この二つの箇所に直接の関係はないとされますが、もとは同じ口伝伝承にさかのぼる、とも言われています。イエスに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われたペトロは、夜通し漁をしても何も取れなかったし、ましてやこんな昼間に網を降ろしてもいまさら何も取れないということが、常識や漁師としての経験からわかっていました。しかし彼はイエスの「お言葉ですから」と、網を降ろします。ここで「お言葉」と訳されているのは、先日も説明した「レーマ」というギリシャ語です。つまり“出来事として実現する神のことば”を指す単語、さらにルカ福音書の著者は、この箇所の最初の部分で、群集が「神の言葉を聞こうとして」集まって来た…と同じく「レーマ」をまず置いて強調しています。すなわち、わたしたちは人間の常識や経験ではなく、神のことば(あるいはイエスのことば)ゆえに行動する時、そこで何かが起き、またそれが神御自身がわたしたちを通して働かれているものであることに気付かされる…ということなのでしょう。
この箇所を読むたびに、わたしは自分のことを思い出します。わたしの場合は言わば「呼ばれている」ことにあとから気付きました。何よりも上智大学の神学部で勉強してみたい…というはなはだ不純な動機で神学校に入った自分が、本当に神から「呼ばれていた」ことに気付いた…と言うかそれを実感したのは、なんと神学校入学から六年たった時でした。自分が何を求めているのか、自分はどっちへと歩んでゆくべきなのか…そんな方向でばかり考えている時には、決して感じることができなかったのです。ところが「自分」ではなく「神が」という視点に立った時、今まで考えもしなかったことに気付かされました。“どうやら神様はこのわたしを、司察にさせたがっているらしい”…ということに。
神はわたし達一人ひとりを、それぞれ違った不思議な形で呼ばれます。マザー・テレサは汽車の中で神の呼びかけを聞き、アッシジのフランシスコは十字架像のイエスから語りかけられました。それはその人独自の体験であるがゆえに、「そんなバカな」などとは決して言えるものではないでしょう。そして、神からの呼びかけは決して一回ではないのです。マザー・テレサは、その何年も前にすでに修道女としての召命を感じていたのでしょうから。その体験は人間の常識や経験、あるいは価値判断をはるかに超えたものです。しかし神からの呼びかけに気付く時、その呼びかけに従うわたしたちの中で、神御自身が働かれていることにも気付かせられます。そして「気付く時」もまた、わたしたちに与えられているのではないでしょうか。人間の目から見るととても不思議な形での神様からの呼びかけ、それに応えてゆこうとする、この姿勢を、これからもずっと持ち続けていきたいと思います。