待降節を迎えて

ルカによる福音(ルカ3・1-6)
1皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フイリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、2アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。3そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。4これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。
5谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。
曲がった道はまっすぐに、
でこぼこの道は平らになり、
6人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」
2006.12.10 待降節第2主日 鈴木真司祭の説教
今年も待降節に入り、典礼色も年間の緑から紫に変わりました。教会が典礼の季節を色で表わすのはとても興味深いことですが、この「紫」には“待つ”という意味があると言われています。待降節の他には四旬節、また以前は「死者の復活を待つ」という意味で葬儀の時などにも使われていました。待降節はまさに、「主の降誕を待つ」季節です。
この「待つ」ということについて考えてみると、わたしたちはある意味でいつも何かを「待っている」ことにも気付かされます。来たるべき何かを、いつも待っている・・身近なものだと、休みの日が来るのを待つ、お金がたまるのを待つ、何か大きなイベントに向けて準備をしながら待っている・・など。
広辞苑で「待つ」という言葉を引いてみたら、いくつかの意味の中に「用意して迎える」というものがありました。「待つ」という状態の中には、その待っている対象に向けての“準備”という要素が、既に含まれているのです。違う言い方をすれば、「待つ」とはその待っている対象に心を向かわせている状態、とも言うことができるでしょう。
「主の降誕を待つ」季節である待降節に、わたしたちは「主の降誕」という出来事に心を向かわせるように勧められているのです。そしてそれは、2000年前に神が人類の歴史に決定的な形で介入なさつた出来事、あるいはその始まりでした。
今日の福音の箇所もそうですが、ルカ福音書はイエスの誕生や洗礼者ヨハネの到来を描くとき、必ず時の権力者や宗教的指導者の名前をあげ連ねます。これは人間の歴史の現実の真っ只中に、具体的に神が介入なさったことの強調であると言われますが、同時にその神のわざが今もなお、具体的に名前のある「わたし」や「あなた」の上にもおよんでいることを、読み手は意識します。
教会はこの季節、神が2000年前に始められたわざに、今もわたしたちにのぞんでいるその「神のわざ」に、目を向けるようにと促していると言えるでしょう。ちなみに「名前」をあげることは
“実際に、現実に、一人ひとりに”ということの強調を表わすのだそうです。例えばミサの中で教皇と司教の名前があげられますが、あれは単に偉い人だからというわけではなく、「教会にいるすべての人に神の恵みを願ううえで、本当は全員の名前をあげたいが、それは無理なので代表である教皇と司教の名前をあげる」という意味なのだそうです。
さて、「神のわざに心を向ける」とはどういうことでしょうか。今日の福音にも出てくる「悔い改め」という言葉は、もとは“神に立ち帰る”という意味のヘブライ語から訳されたギリシャ語だそうですが、日本語では「回心」とも訳されます。神へと心を回すこと、それは生活の一部修正ではなく、生きる姿勢そのものの方向を変えることだとも言われます。神へと心を向け直す、それは言わば【神が向かわれている方向に自分の心を向ける】ことにもなります。
「悔い改め」というと何か自分がしている悪いことをやめて反省する・・といったイメージが強いですが、そうではなく、神が何をのぞまれているか、神の目がいつもどこに向いているかに心を向けることなのです。そして、神が行われ、また行われ続けている【わざ】そのものの中に、それが示されているとも言えるでしょう。
先週も言いましたが、この「悔い改め」と訳された《メタノイア》というギリシャ語を【共感】と訳す人もいます。人のいたみ苦しみが共感できるところまで自分の心“回す”こと、それこそが【神が向かわれている方向に自分の心を向ける】ことに他ならない、ということでしょう。
待降節を迎えて、今年もまたわたしたちは神が人類に対してなされた大いなるわざに、心を向かわせます。そしてそれが終わったことではなく、今日もわたしたちのうえにおよんでいることを改めて意識致しましょう。その神のわざの中で、わたしたち一人ひとりが、今、この時、誰に目を向けよと言われているのか、誰がいたみ苦しんでいるのか、その【神の視点】にわたしたちの視点を合わせてゆくことができるよう、御一緒に祈りたいと思います。