王であるキリスト



ヨハネによる福音(ヨハネ18・33b-37

 

33b〔そのとき、ピラトはイエスに、〕「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。34イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」35ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」36イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」37そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

 

2006.11.26王であるキリスト鈴木真司祭の説教

 

 今日は年間最後の主日、「王であるキリスト」の主日です。『聖書と典礼』の最後のぺ一ジに説明があるように、「救い主としての王であるキリストを祝う日」と言われています。
「キリスト」というタイトル自体がヘブライ語で“メシア
(油注がれた者)”つまり「王」の意味でありますし、そこに神学的な説明もありますが、毎年この主日を迎えるたびに、わたし自身は「王」というタイトルをイエスに付けることにどうも違和感を感じてしまいます。この世の王の華々しいイメージ、《権力者》《支配者》といったイメージが言葉自体にあるからでしょうか、もっとも小さい者といつも共に歩まれたイエスには似つかわしくないように思えてしまうのです。
 聖書、特に旧約の描く「王」に着目してみると、その答えが見えてきます。イスラエルが王制をとっていたのは、実は歴史的に見るとほんの一時期でした。(とはいっても
500年位はありますが)。もともとイスラエルには「神こそが王であり支配者、人間の王はいらない」という考え方がありました。ところがカナンの地に定住した彼らは他国との戦争をはじめ、司令官として全体を統率する「王」の存在の必要性に迫られて、しぶしぶ王制を取り入れるに至ったのです。その「しぶしぶ」さが、聖書にもよく表われていておもしろい感じがします。
 例えば申命記
17章に『王に関する規定』というのがあって、これはかなり厳しいものです。まず、「王は妾を持ってはいけない」。・・実は王様はみんな妾がいましたね。永遠のヒーローとうたわれるダビデでさえ。ダビデの跡を継いだソロモン王は妾腹でした。・・次に「軍備拡張してはいけない」。・・もともと戦争のための王なのに、軍拡はいかん、と言うんですね。そして「同胞を見下してはいけない」。何よりも「国民の誰よりも律法に精通していなくてはならない」とあります。こうした規定は案の定守られず、それが故に王国は衰退の一途をたどった・・と旧約は描いていくわけです。そして王国滅亡の前後から、「神は我々をお見捨てにならず、いつか必ず本物の『王(救い主)』を世に送って下さる」という“メシア思想”が出てくるのです。
 ポイントはやはり、「神こそが王」というイスラエルのもともとの考え方にあります。その中にあるのは神とはどのような御方か・・つまり一つひとつのいのちをこよなく愛される方、だからこそ「すべてを治めておられる」という表現をしたわけです。そしてそのような神を体現するのが本来の「王」であるべき、と・・これはやはり人間には所詮無理なことですね。
 今日の福音の中でイエスは「わたしは真理を証しするために来た」と言います。この表現はヨハネ福音書が好んで使うもので、「真理」とは『聖書と典礼』の注書きにもあるように、哲学的なことではなく【神の本質】を表わす言葉、言わば【神がどのような御方であるのか】を指すものに他なりません。イエスは御自分のまさしくすべてをもって、「父である神」を示して下さいました。だからこそ、イエスこそが「キリスト」つまり本物の「王」であり救い主である、と言われるわけです。
 イエスはこの世のどんな王とも違う、“神様のものさし”つまり福音的価値観を生き、そして示す「王」です。この世の王であればこの世的な、人間社会の常識的価値観を持って国を統べるでしょうが、イエスが示された福音的価値観、神のものさしはある意味でそれとはまったく違うのです。違うからこそ、わたしたちがそれに従って歩むことは時には難しく、また時には失敗することもあります。しかしわたしたちキリスト者はその【神のものさし】にこそ、本当の救い、神が人間に与えられた本来の生き方があると信じている、と言えるでしょう。今日の福音はイエスとピラトの対話ですが、その中にも人間の考え方と神の見方の違いが様々な形で出てきます。「王であるキリスト」というタイトルには、そうした【神のものさしこそが救い、それを示すのが本当の「王」】という深い意味がこめられています。今日「王であるキリスト」の主日を祝うわたしたちも、イエスが示された福音の価値観にいつも目を向けることができるように、共に祈りましょう。