いのちのパン

ヨハネ(6:41・51)
41ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、42こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」43イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。44わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。45預言者の書『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。46父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。47はっきりいっておく.信じる者は永遠の命を得ている。48わたしは命のパンである。49あなたたちの先祖は荒野でマンナを食べたが、死んでしまった。50しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。51わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンをン食べるならば、その人は永遠に生きる。わたし与えるパンとは・世を生かすためのわたしの肉のことである。」
2006.8.13年間第19主日集会祭儀 鈴木真神父説教
ヨハネ福音書の六章は全体として、初代教会において古くから行われていた「聖餐式」、つまりミサが背景に置かれて編集されていると言われています。ですから今日の箇所も、イエスが実際に言われた言葉というより、ヨハネ福音書における「聖餐」の位置づけと解釈が神学的に説明されている、と言えるでしょう。
「信じる者は永遠の命を得ている」「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」ヨハネ福音書が好んで使う表現です。
福音書において「いのち」あるいは「生きる」と訳されているのは、一部の例外を除いてほとんどが“ゾーエ”というギリシャ語で、この言葉には特別の意味が含まれていると言われます。
それは単に〈この世で肉体を維持する生命〉ではなく、【神とのむすびつきにおいて生かされるいのち】を示し、それは「永遠」、つまりこの世を超えたものであるというのです。ですから、福音書が「永遠の命」と言う時、それはこの世で永遠に生き続けることを指すのではなく、神とのむすびつき、きずなが消えることのない永遠のものであることを意味しています。
ヨハネ福音書では、その神との永遠のつながりのしるしが「聖餐」つまり【聖体祭儀】であると位置付けられています。わたしたちがキリストの食卓を囲み、パンを分かち合う時、そこに神とのこの世を超えたむすびつき、きずなが、キリストを通して与えられているのです。
「わたしは、天から降って来た生きたパンである。」神とわたしたちをつないで下さるキリストもまた、永遠にわたしたちと共にいて下さる。わたしたちは聖体を通して「主の日」ごとに、そのことを体験していると言えるでしょう。
今日、茅ヶ崎教会では残念ながら集会祭儀ですが、この日に全世界で捧げられているミサに心を合わせ、神との永遠のつながりのしるしであるキリストのからだ、御聖体を分かち合っていただきたいと思います。