パンも、袋も、金も持っていくな

マルコによる福音(マルコ6・7-13)
7〔そのとき、イエスは〕十二人を呼び寄せ二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際汚れた霊に対する権能を授け、8旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、9ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。10また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。11しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の挨を払い落としなさい。」12十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。13そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。
2006.7.16 年間第15主日集会祭儀 鈴木真司祭の説教
今日の箇所は先週から続くところで、イエスが十二人の弟子たちを宣教へと派遣される場面です。「パンも、袋も、金も持っていくな」というイエスの言葉は、少々厳しすぎるようにも聞こえてしまいますが、ここには旧約の預言者たちの姿や、初代教会における宣教者たちの姿が重ね合わされているとも言われています。初代教会の時代の宣教者たちは、神の支配の確かさを示すために、神への絶対的信頼を身を持ってあらわすしるしとして文字通り無一物で出かけたのだそうです。また旧約においても、預言者たちは自分の考えや思いつきで行動したのではなく、神から呼び出されてそのメッセージを民に伝えたのでした。福音宣教の主体はあくまで神御自身です。宣教とは神がなさるわざであり、だからその道具となる人間はよけいなものを持つ必要もないし、またそのことをあらわすために、あえて何も持たない、ということなのでしょう。わたしたちは「福音宣教」というと、どこか構えてしまうきらいがあるようです。特別に何かしなければとか、ボランティア活動を・・とか、あるいはキリストのことを人々に伝えなければ、キリスト信者をもっと増やさなければ、とか。もちろんそれらも大切なことでしょうけれど、まずはもっと基本的なことに目を向ける必要がありそうです。
「福音宣教」は神のわざであり、わたしたちはその道具です。神御自身が働かれるということにもっと信頼しなさい、と言われているようにも思います。神は必要なところにわたしたちを派遣して下さっているのでしょうし、わたしたちが気付かないところでわたしたちを通してすでに働かれているのです。そう考えると、わたしたちが福音を生きようという姿勢を持つ限り、そこで何をしようとそれは「福音宣教」になり得る、と言っても過言ではないと思うのです。それを「福音宣教」にして下さるのも、また神御自身なのですから。第二朗誌の「エフェソの教会への手紙」の中でも、パウロは「すべてのことは、キリストのもとにすべてを一つにまとめようとする神の御計画」と言っています。話は変わりますが、先日の「主日の福音を読む」の講座で今日の『聖書と典礼』の表紙にある絵のことが話題になりました。「十二使徒とイエス」という表題がついていますが、おそらく十二使徒は上下の六人づつ、真ん中がイエスだとしてもその両側の四人は・・マリアとヨセフ、で天使?・・と。ある方がオリエンスのホームページで調べて下さいました。イエスの両側は、左がガブリエルと洗礼者ヨハネ、右がマリアとミカエルなのだそうです。そして驚くことに、十二使徒の肖像にあるギリシャ語の名前を見ると、福音書や使徒言行録の記述とは違って、福音書記者マルコとルカ、そしてパウロが入っているというのです。ちなみに上段は右からマルコ、アンデレ、ペトロ、パウロ、ヨハネ、ヤコブで、下段(三段目)は右から熱心党のシモン、フィリポ、マタイ、ルカ、トマス、バルトロマイだそうです。四人の福音書記者とパウロは表装のついた本を手にしています。解説には「歴史上の十二使徒ではなく、新約聖書を通してキリストを伝えてくれた人という意味での使徒が描かれていることは、今日の我々にとっても確かに実質的な意味を持つ使徒像であるといえる」とありました。確かに「十二」という数字は人数というより象徴の意味が強いし、パウロは自ら自分が「使徒」であるという意識を強く持っていましたが、このような「使徒像」が10世紀において描かれていたのにはとても驚くとともに、何かヒントをもらったようにも思いました。使徒たちが、そしてパウロが、福音書記者たちがそうであったように、わたしたちも同じようにキリストを伝えるために一人ひとり呼ばれています。そして神御自身が彼らを通して働かれたように、わたしたちのうちでも神御自身が働かれている。そして使徒たちに臨んだ同じ聖霊が、パウロに臨んだのと同じキリストからの呼びかけが、今日のわたしたち一人ひとりの上にも臨んでいるのです。パウロが言う「あらゆるものが頭であるキリストのもとに一つにまとめられる」という神の御計画が、はるか時代を超えて今も進行している、と実感するような思いがしました。「福音宣教」の道具としてわたしたちも神の御計画にあずかっていることを、共に心に留めたいと思います。