ありのままの《このわたし》が派遣されている


 

マタイによる福音(マタイ2816-20

16{そのとき、〕十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。17そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 

2006611日三位一体の主日/集会祭儀における鈴木真神父説教

 

「十一人の弟子たちは…イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」…マタイ福音書のしめくくり、弟子たちが宣教へと派遣される場面です。「ひれ伏す」と訳されている言葉は“礼拝する"という意味で、つまり自分が礼拝している対象がどなたであるかわかっている上での行為を指す言葉です。それなのに「疑う者もいた」というのは、どうも不自然に思えてしまいます。ここで「疑う」と訳されているギリシャ語は《ディスタゾー》という単語で、”二つの方向に進む“という意味だそうです。人の中に二つの異なった思いの方向があり、分裂した状態を表わす言葉だというのです。福音書でこの単語が出てくるのは他には、マタイ1431節だけです。湖の上を歩くイエスに向かってペトロが、「本当にあなたでしたらわたしにそちらへ行かせて下さい」と言います。イエスがお呼びになるとペトロも湖の上を歩きはじめますが、途中で強い風に気付いて怖くなり、その瞬間に沈みかけます。イエスは手を伸ばしてペトロを捕まえ、そしてこう言われます。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。…イエスを見つめながらも現実の恐怖に心が向いてしまったペトロの姿が、この《ディスタゾー》という言葉の意味によく表わされています。

「疑う者もいた」とは、原文では11人の中の誰かというより、11人全員にこの《ディスタゾー》の要素があったというニュアンスが強い文になっているといいます。つまり、イエスがどなたであるのかわかっていながら、完全に従う自信がない・・そんな弟子たちの姿を表わしているのでしょう。そしてそんな弟子たちを、イエスはなんとそんな状態のまま丸ごと派遣してしまわれます。完全な者が宣教へと派遣されるのではなく、復活されたイエスに出会いながらもまだまだ足りないところだらけの弟子たちが、ありのままの姿で「行け」と言われたのです。なぜなら、宣教の主体はあくまで神御自身であり、そのわざに携わることができるのは、復活されたイエスがいつも「共にいて」下さるからです。

 

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」…この箇所に触れるたびに、本当にすごい言葉だなあと思います。「世の終わり」と言うのだから、弟子たちが死んだ後もずっとイエスは共にいて下さる…わたしたち一人一人に向けても、この同じメッセージが語られているのだと思います。この世という限られた時間と空間をはるかに超えて、イエス・キリストはいつもわたしたちと共にいて下さる…。ちなみにこの「共にいて下さるキリスト」という要素は、マタイ福音書全体を貫く大きなテーマです。マタイ福音書の著者がこの言葉をわざわざ最後に持ってきたのは、イエスの誕生が予告される場面(1:23)での「『見よ、おとめが身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は『神は我々と共におられる』という意味である」・・の箇所を読者に思い起こさせるためだ、と言われています。常に共にいて下さる神、そのしるしが復活されたキリストであるのだと、福音書記者は最後に言いたかったのでしょう。

わたしたち一人ひとりはみんな不完全です。でも弟子たちがそうだったように、わたしたちもそのありのままの姿で常に派遣されているのです。使徒言行録などを読むと、弟子たちは宣教の働きの中でこそ、イエスが常に共にいて下さると感じていたことがよく伝わってきます。わたしたちも同じように、わたしたち一人ひとりがありのままの《このわたし》として【派遣されている】ことに気付く時、「共にいて下さるキリスト」をより感じることがでざるのではないでしょうか。何よりも【福音宣教】とは、わたしたちと「共にいて下さるキリスト」を通して、神御自身がなさるわざに他ならないのですから。

三位一体の主日に、キリストを通して父である神のわざによってわたしたちが福考宣教へと派遣されていること、そしてそれこそが聖霊の働きであることに、共に心を向けましょう。