互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である

〈ヨハネ15:917

9「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。10わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。14わたしの命じることを行うならば、あながたはわたしの友である。15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

 

2006.5.21復活節第6主日 鈴木真司祭説教

 

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」・・ここで「掟」と訳されている言葉は、当時「律法」とほとんど同じ意味で使われた《ハガナ》というヘブライ語を指すものです。イエスの時代の律法学者によれば、旧約聖書において「掟」と総称されるものは、実に613項にのぼったそうです。そんなにあるものだから、どれが一番大切かが頻繁に議論されたそうで、福音書でも律法の専門家がイエスにその質問をする場面が出てきたりします。613もあった「掟」・・言わばイエスはそれをたった一つにしてしまったのです。ヨハネ13:34ではそれが「新しい掟」とさえ言われています。これは当時のユダヤ教の根底をゆるがす、過激な発言と言わざるを得ないでしょう。

ファリサイ派など掟を守ることを何よりも大切に生きていた人たちは、それによってこそ救われる、と信じていたのですから。しかしそんな人々に、イエスは常に「掟とは一体何なのか、なぜ律法が作られることになったのか、その本質とは何か」と疑問を投げかけられます。そもそも律法や掟と呼ばれるもののもとになった《モーセの十戒》は、出エジプトという出来事から生まれました。神の大き過ぎる愛と救いの出来事を体験したイスラエルの民は、その神の愛に少しでも応えようとしたのです。「こんなにも愛されているのだから、こんなにも救われたのだから、せめて救われたものどうしとしてお互いに大切にしあっていこう」と。それが成文化された時点で10項になり、後にそれに解説や細かい規定がつけられ、さらには生活の知恵的なものまで次第に加わっていき、ついには613にまで膨れ上がっていくことになりました。だからこそ、イエスは言われるのです。もとの原点に戻ろう、互いに愛し合うこと、それが神の愛に応えて生きてゆくことなのだと。

 

聖書が言う「愛」とはアガペというギリシャ語で、行為・行動を意味する言葉です。日本語の「愛」は様々な意味を含む言葉ですが、ギリシャ語ではそれを四つに分けて、相手のために実際にする行動、結果としての行為の部分を「アガペ」と呼んでいました。つまりは、どんなに頭の中で良いことを考えていても、どんなに良い心を持っていても、実際にそれを行わなければ「アガペ」したことにはならないのです。「あなたの敵を愛しなさい」という言葉も、それがアガペだから成り立つものと言えるでしょう。自分の「敵」に良い感情を持つことは不可能に近いですが、その「敵」のために何かをすることは少なくとも不可能ではありません。もちろん、“良い感情を持てない”相手のために何かをすることはそう簡単ではないでしょうけれど・・。「互いに愛し合いなさい」と言われる時、それは【アガペし合いなさい】と言われているのです。すなわち、互いに相手のために実際に何かをすることが求められています。それはごく簡単なこともあれば、なかなか難しいこともあるでしょう。

でもわたしたちがともすると忘れがちになるのは、それをわたしたち人間は自力では決して出来ない、ということです。イエスは言われます。「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしが選んだ」ヨハネの手紙でも言われているように、「先にわたしたちを愛して下さった神」が、キリストを通して【アガペする】ことを可能にして下さるのです。「わたしが愛したように・・」と言われると、キリストのようにはとても愛せない・・と思ってしまいますが、他でもない父である神御自身が、させて下さるのです。そのために「わたしがあなたがたを選んだ」と言われているのですから。また「愛する」とは行動すること、と言われても、そんな大したことが自分にできるのだろうか・・とも思ってしまいますが、それも神御自身が自分にできることに必ず気づかせてくださるでしょう。どんな小さなことでも、「行動(アガペ)」に成り得るのですから。

 

そう考えてゆくと、一番大切なのはわたしたち自身が「愛する者にさせて下さい、愛させて下さい」と願い求め、祈ることなのだと気付かされます。この自分を「アガペする」ために差し出すこと、それこそが自らを渡されたイエス・キリストに従って歩む道なのだと思います。イエス御自身がわたしたちを「任命(“差し出す”という意味)」されているのですから。