復活されたイエスとの出会い

(ルカ24:3548)

35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

36こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。39わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」40こう言って、イエスは手と足をお見せになった。41彼らは喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた42そこで焼いた魚を一切れ差し出すと、43イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩篇に書いてある事柄は、必ず実現する。これこそ、まだあなたがたといっしょにいたころ、言っておいたことである。45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47また罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、48あなたがたはこれらのことの証人となる。

 

2006.4.30復活節第三主日集会祭儀 鈴木真司祭説教

 

キリストの復活、それは出会いの体験です。四福音書を注意深く読み合わせてみると、復活されたキリストに出会った弟子たちの体験とは、まさに筆舌に尽くし難い、実に様々な要素が絡み合ったものであることが感じられます。それはゆるしと受容の体験であり、力が与えられたこと、悟り、派遣・・それこそ言葉にしきれないもののように思います。
 今日のルカの箇所にも、そのことが随所に暗示されています。「あなたがたはこれらのことの証人となる」・・“証人になりなさい”とか“証人となるのです”などとは言われていません。イエスを裏切って逃げ散ってしまった、イエスの生前はほとんどイエスのことを理解していなかった、その弟子たちそのままの存在自体が「証人」・・《あかし》であると言われているのです。マタイの「地の塩、世の光」の箇所でもそうですが、ありのままのわたしたちが【しるし】とされている。《わたし》という存在を通して、神が働かれていることの【しるし】が示されているのです。キリストに触れたわたしたち一人ひとりが「証人」とされています。《わたし》の能力や才能が《わたし》を「証人」たらしめているのではありません。ありのままのわたしたちのうちに、神のわざが働いているのです。問題は、わたしたちがそのことをどうとらえるかでしょう。
「イエスは聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて言われた」とあります。「目」とは、聖書においては心の向いている方向をあらわすシンボルであると言われます。旧約聖書などによく「目を上げる」「目をあける」などという表現が出てきますが、それはまさに“神へと心を向け直す
"ことを示していますし、逆に「目を伏せる」とは神に対して後ろめたいところがあること、「目配せする」というと神から心が離れてしまってよこしまな思いに走っていることだと言われます。「目」自体が言わば「心」の状態を表しているのです。そこからすれば、イエスが「心の目を開く」とはつまり、まさに【神】へと、【神のなさるわざ】へと弟子たちの心を向かわせて下さったことをあらわしているのではないでしょうか。そして、それによってそれぞれの聖書の言葉がそれまでとは違った響きを持ってくるのです。それこそが、弟子たちにとって「聖書を悟らせていただいた」体験だったのだと思います。
 わたしたちにも同じ体験がないでしょうか。いつも読んでいる聖書の言葉が、ある日突然、それまでとは違った特別な意味を、現実の生活や体験の中で持っことがあります。わたしにとっては、今日の箇所がまさにそうでした。「あなたが、ありのままのそのあなたが【あかし】なのだよ。」そうか、そうだったんだ・・と思いました。《わたし》の力で何かをしているんじゃない、《わたし》の中に、このいたらない《わたし》の中に神のわざが働いている。だから自分の力で何かをしようとした時に限って、どこかしらうまくいかなかったのです。自分の中に、自分という存在を通して神御自身が働かれている・・そりゃなんとももったいないことだと思いつつ、それ以上にそのわざの偉大さ、神の御計画の遠大さに驚かされた瞬間でした。そうか、ならばあれこれ心配する必要もないんだ、とホッと安心できた瞬間でもありました。 わたしたちにとって聖書の言葉が【生きて語りかけてくる】瞬間が確かにあります。それを感じる時、わたしたちにとっても復活したキリストがすぐ近くにいて下さり、キリスト御自身がわたしたちに語りかけて下さっているのです。弟子たちと同じく、わたしたちにとっても、キリストの復活とは出会いの体験に他なりません。人との出会いの中で、出来事との出会いの中で、そして《いのち》との出会いの中でキリスト御自身が語りかけておられる。そのことに気づく時、ありのままの自分の中に神のわざが働いていることを感じるのです。
 今年もキリストの復活を祝う季節の中で、共にその【復活の体験】を分かち合いたいと思います。