
ヨハネ2:13〜25
13ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムヘ上って行かれた。14そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。15イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、16鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」17弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。18ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。19イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」20それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。21イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。
23イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。24しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、25人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。
2006.3.19 四旬節第三主日 集会祭儀のための鈴木真司祭説教
『神殿から商人を追い出す』というこの出来事は、四つの福音書すべてに載せられています。すべての福音書に書いてあるということは、その出来事が、福音書が編集された時期にはかなり有名であったことを意味しています。福音書によってそれぞれ細かい部分や強調点は違いますが、イエスが神殿で行なったこの行為が、当時の人たちにとってとても衝撃的で、それゆえに語り継がれてよく知られるようになったことは事実だろうと思います。実はわたしは個人的にこの箇所が大好きで、言わばこの「イエス神殿で大暴れ」の箇所を読むたびに、ひそかにイエス様に声援を送ってしまいます。まあしかし当時の人たちは、いったい何事かと相当驚いたことでしょう。何よりも弟子たち自身が「そこまでしなくても・・」と思ってしまったほどに驚いたことが、今日のヨハネ福音書の箇所からうかがえます。では、イエスはいったいどうしてこのようなことをなさったのでしょうか。当時のエルサレムの神殿では、いけにえとして捧げる様々な動物が売られていたようです。いけにえの動物については細かい決まりごとがあったために、巡礼者が持ち込んだものについては厳しい検査があって、そのためにその場で売られている検査済みの動物を買ったほうがずっと便利だったからだとも言われています。一番高価なものは子牛で、それにつぐのが子羊、そのいずれも買うお金のない人たちのために、ハトやすずめが売られていました。また、神殿に神殿税として納めるお金は古いイスラエルの貨幣に限られていました。ギリシャやローマの通貨には、自らを神格化した皇帝や神々の像が刻まれていたため、それを神殿に持ち込むのは、モーセの十戒の「いかなる像も造ってはならない」という条項に抵触すると考えられたからです。そのために、やはり両替商が必要でした。そんなことなどから、自然に神殿は「商売の場」となっていたのです。そのような現実の真只中でイエスがとった行動は、【神を礼拝するとはそもそもどのようなことなめか】、その中で【最も大切なことは何であるのか】という問いを人々に投げかけました。神様を礼拝するのに他の生き物の命を犠牲にする必要があるのか?形だけの換金行為が果たしてそんなに大切であるのか?・・という。形骸化してしまった宗教行為や礼拝に対する問題提起は、実は旧約の時代からなされていました。神を礼拝する行為に関しても細かな規定が設けられる一方で、本当にこれらのことが神に喜ばれるのだろうか・・という疑問が投げかけられたのです。そんな中でイザヤが出した結論は、「本当に神に喜ばれるのは愛の行為に他ならない」ということでした(ex.イザヤ58)。イエスの時代にあっても、エルサレムの神殿自体が、“神に心を向ける"ことからあまりにもかけ離れてしまったものの象徴となっていたのです。そこにイエスの声が響き渡ります。「ここは祈りの家ではなかったのか?」・・と(eX.共観福音書)。
ヨハネ福音書の今日の箇所では、加えてイエス御自身が神の礼拝の媒体、しるしとなることが暗示されています。わたしたちはミサなどで祈る時、必ず「わたしたちの主イエス・キリストによって」と結び、それに皆が「アーメン」と応えます。わたしたちにとって、すべての祈り、賛美、礼拝、感謝はまさに「イエス・キリストを通して」のものに他ならないのです。
カトリックでは、礼拝の中で言わば《五感で感じられるしるし》を大切にします。それはより分かりやすいし、いいことだと思いますが、その《しるし》が示す本質にいつも心を向けていなければ、わたしたちにとってもそれが“形骸化"してしまう危険がないとも限りません。イエスはいっでも、【最も大切なことは何であるのか?】とわたしたちに問いかけられます。共に神に心を向けるわたしたちにとって、その本質が何であるのか、どこにあるのかをいつも共に見つめましょう。でないと、イエス様があらわれて聖堂で大暴れなさるかもしれません。形だけではない、心からの礼拝を、共に神に捧げたいと思います。