この自分でしかだめなもの

「十人のおとめ」のたとえ <マタイ25:1〜13>
1「そこで天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。3愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。4賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壷に油を入れて持っていた。5ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。6真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。7そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。8愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』9賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』10愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。11その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。12しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。13だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」
2005.11.6 年間第32主日鈴木真神父の説教
『「十人のおとめ」のたとえ』と新共同訳でタイトルが付けられている箇所です。わたしは以前からこの箇所を読むたびに「感じ悪い!」と思っていました。賢いおとめと愚かなおとめが出てきますが、その愚かさを強調するためでしょうか、「愚かな」「賢い」という言葉がこれでもかという位に繰り返されます。しかし《神は愚かな者を通して賢い者を戒められる》、それが聖書的ではなかったか?と思ったり、「分けてあげるほど油はない、自分の分は買ってきなさい」なんていかにも非福音的で、たとえ自分の分が無くなっても人にあげるのがキリストの教えではなかったか?と思ってしまうのです。さらに主人が言う『はっきり言っておく』という言葉は、キリストが何か特別に大切なことを言うときのセリフで、昔のバルバロ訳では「まことにまことにわたしは言う」と訳されていたものです。しかしその後が『わたしはお前達を知らない』じゃ、あまりに救いがなさ過ぎます。一体どういうことなんだろう・・と調べてみたら、この箇所は元のたとえがなんだったのか判らない位に編集者の意図と手が入ってしまっているところだそうで、その大きなテーマはいわゆる<終末遅延>の問題に対するマタイなりのこたえ、ということなのだそうです。
使徒たちの時代、「世の終わりは明日にでも来る」という終末に対するイメージと切迫感がありました。パウロの手紙などにはそれがはっきりとうかがえますし、だからこそ迫害にもよく耐え、いのちをかけて宣教できたのです。今しばらくの辛抱だと思われていたのですから。しかし、福音書が編集されるその次の世代になると、どうやら《世の終わり》はすぐには来ないらしい、ということがわかってきて、教会は信仰の本質を問われる事態に陥りました。今日の箇所の直前に、主人の帰りが遅くなると思って飲んだり食べたり仲間を殴ったりする「悪い僕」のたとえが語られますが、実はマタイの教会にこうしたことが実際に起こっていたという現実がその背景にあると言われています。すなわち、《世の終わり》に対する緊張感が取り去られた結果、失望と怠惰が教会を襲ったのです。
こうした<終末遅延>の問題に対して、各福音書はそれぞれのこたえを用意します。例えばルカ福音書は、終末が近いというのは誤りだったということを認めた上で、大切なのは「今」という時、キリストに出会い、神のはたらきに気付く「今」、救いは実現する、とします。ですからルカにおいて「今日」とか「今」という言葉が出てくる時、それが重要なキーワードになるわけです。一方ヨハネ福音書では、むしろキリストの到来によってすでに《世の終わり》は始まっているとし、その「時」の中でキリストに触れることによって救いは実現すると主張します。ルカに似ているようで、しかし独特なヨハネ的な描き方がなされています。しかしマタイは、やはりユダヤ人的な特徴からでしょうか、どうしても《裁き》を出したいところもあって、あくまでも《世の終わり》は必ず来る、と強調します。だから、いつ来てもいいように「用意していなさい」と言うわけです。
では今日の箇所から福音のメッセージを受け取るとしたら、どの部分でしょうか。“他人の油ではダメ”というところがやはり引っかかります。人からは貰えないものとは、わたしたちにとって何でしょうか?逆に《この自分でしかだめなもの》という方向で考えてみると、それは神からの呼びかけに他ならないことに気付きます。ヨハネ福音書に「羊飼いは羊の名前を呼んで連れ出す」とあるように、神は他の誰でもないこの《わたし》を名指しで呼ばれます。この《わたし》にしか出来ない使命、役割が与えられているのです。では、そのような神の呼びかけをいつも意識し、受け入れ、それに応えていくことが求められている、ということでしょうか。わたしたちはいつでも「わたし」を主語にして考えがちですが、「神」を主語に置き換える時、その【神からの呼びかけとはたらき】に気付きます。「わたし」ではなく「神」がわたしを通して働かれていることに気付くならば、自ずと進むべき道も見えてくるものです。そこに示されているキリストの価値観に、いつも目を向けられるよう、共に祈りましょう。