私たちの中にいるファリサイ派

マタイによる福音(マタイ23・1112)
1〔そのとき、〕イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。2「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。3だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。4彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。5そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。6宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、7また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。8だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。9また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。10『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。11あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。12だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
2005-10-30 集会祭儀において代読された鈴木司祭の説教
今日の福音の箇所は、全体として書き加えられた部分が多く、実際のイエス御目身の言葉にさかのぼる部分はごく少ないと言われています。その元になっていると思われるマルコの並行箇所では、非難の対象が「律法学者」だけになっているのに対し、マタイでは「ファリサイ派の人々」が加えられていることや、「あなたがたの教師はキリストー人だけ」と言われているところからも明らかです。こうした部分は、マタイ福音書の母体となったユダヤ人キリスト者のグループの資料に基づくもの、とされています。
「律法学者とファリサイ派の人々」というと、福音書では常にイエスの論敵であり、何か悪者の象徴のような印象が与えられてしまっていますが、イエスの時代、実際には色々な人がいたのも事実でしょう。先週の箇所のもとになっているマルコの並行箇所では、「どの掟が一番大切でしょうか?」とイエスに質問した律法学者は、イエスの答えに同意したことでなんとイエスからほめられたりしていますし、福音書の中でイエスがファリサイ派の人の家で食事をするという記事も見られます。まあもちろん、福音書が語るような非難の事実の対象になったような人もいたのでしょうが、マタイ福音書がこのような徹底したファリサイ派批判をする理由は、その時代背景にもありました。それは、マタイ福音書が編集された時代には、ユダヤ教側からキリスト教迫害が激しさを増していたことと、マタイ福音書の母体となった教会内にも、<ファリサイ派的傾向>を持った人たちが権カを振るいつつあった、ということです。すなわち自分の正しさを誇り、自分たちとは違う人々を差別する傾向です。13節以降には「あなたがた」いう二人称で警告が語られているのも、そうした理由からだと言われています。
いつの時代にも、人間はこの<ファリサイ派的傾向>に陥りがちになります。それは教会とて例外ではありません。できたばかりのキリスト教もその問題を抱えていました。「自分こそは正しい」と自分を誇り、自分のものさしに合わない人を差別し非難する。「あなたがたの父は天の父ただお一人、あなたがたの教師はキリストただ一人、あとはみな兄弟姉妹」と福音書が強調するのは、人間は神から見ればみな罪深く小さい存在で、しかしその人間を神御自身がこよなく愛して下さっているということを常に思い起こさせるためでしょう。「あなたがたのうちでいちばん偉い人は仕える者になりなさい」…「仕える者」と訳されている言葉は“奴隷・しもべ”を表わすものです。「ただ一人の教師」と言われているキリスト御自身が、「わたしは仕えられるためではなく、仕えるためにきた」と言い、自ら「仕える者」になられました。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」…「へりくだる」とはもとは“身をかがめる”動作から発展した言葉で、「礼拝」の意味でも使われます。神がどのような存在であるかを本当に知ることによって、その神の前に置かれた自分の小ささに気づく…ということでしょう。「高められる」という言葉は、明らかに【神】が主語として隠されているものだと言われます。人を“高くする"のは神御自身のわざであり、人がそれを成し得るではありません。
すべては神のわざであり、わたしたち人間のあらゆる“善いわざ”を可能にして下さるのも神自身です。それを、わたしたちはしばしば「自分の手柄だ」「自分の力でやった」と思い込み、それゆえに神から心が離れてしまいます。そのようなとき人間は傲慢と言う罪に陥るのではないでしょうか。
今日の箇所で批判されているような《ファリサイ派的傾向》は、ともすればわたしたちの中に.常に入り込みます。わたしたちが信仰宣言の冒頭で述べる「すべては神が創られたもの、わたしたちを通して神御自身が働かれている」ことをいつでも思い起こし、わたしたちみんながひとしく「兄弟姉妹」であることを、そしてわたしたちにとって「教師は自ら<仕える者>となられたキリストただ一人」であることを、心に刻み続けたいと思います。