自分より「下」の人に働く神のわざを見るとき

マタイによる福音(マタイ2128-32

〔そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。

28「あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と言った。29兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。30弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。31この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。32なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。

 

2005.9.25年間第26主日集会祭儀 鈴木真神父の説教

 

今日のこの『「二人の息子」のたとえ』は、もともとは兄と弟が逆だったのでは…という聖書学者の意見もあります。すなわち、兄は行くと言ったが行かず、弟はいやだと言ったが考え直してぶどう園に行った・・。どちらが元なのかはわかりませんが、初代教会はこのたとえをユダヤ人と異邦人を指すものとしてとらえました。福音はまずユダヤ人に示されたが彼らは受け入れず、その結果神の意志に従って行動したのは、後から福音を聞いた異邦人であった、と。しかしマタイはこれを、「神の国は疎外された人たちにこそ開かれている」と言うイエスの言葉を付加した上で、祭司長や長老たちへの批判の言葉として編集したようです。場面としては、イエスがエルサレム入城後に行ったいわゆる<宮清め>に対する祭司長や長老たちからの非難の言葉に向けてのものです。「あなたは何の権威でこのようなことをするのか」という祭司長や長老たちの言葉にイエスは、「言っておくけど、あんたたちよりも徴税人や娼婦たちの方が先に神の国に入るよ」とこたえられたのです。長老たちにとっては最大級の侮辱とうつったことでしょう。 徴税人や娼婦は彼らが《罪人筆頭格》として差別していた人たちなのですから。

徴税人や娼婦が「兄」にたとえられているのは少々無理がありますが、マタイはここで洗礼者ヨハネの例を出しながら・彼らが「信じた」ことを強調しています。「考え直して」と訳された言葉は〈メタメロマイ〉というギリシャ語で、“良心の責めを感じる”“後悔する”という意味だそうです。「回心(メタノイア)」とも関係の深い言葉で、もともと神から与えられた【心】を思い起こすことに他なりません。祭司長や長老たちは、律法を守るエリートとして「自分たちは神に自力で従える」と自負していた人たちでした。しかし人間は誰しも、自力で神の望みを完全に果たすことなどできないのです。それを痛いほど自覚していた徴税人や娼婦たちの方が、神の救いを素直に受け入れることが出来ました。自分に頼り、自分を誇って他人を見下すか、それとも自分の至らなさを自覚し、ただ神にのみより頼むか…どちらが神の望みを果たすことか、どちらが神に従う道であるかは歴然としています。しかも祭司長や長老たちは、徴税人や娼婦たちが「信じた」姿を見ても、「考え直そうとはしなかった」のです。罪人が回心に導かれるという大いなる救いのわざが目の前で示されているのもかかわらず、それが【神のわざ】であることに、彼らは気付きませんでした。

わたしたちにとっても、同じことが起こりえます。わたしたちは自分よりも何となく「下」という意識を持つ人々に対して、その人々を通して神のわざが示されていることをどうしても見失いがちです。むしろそういう人々にいいことがあったり、喜んでいたり、あるいは喜ばれていたりすると「なんであいつが…!」とねたんでしまいます。しかし、その人の中に神のわざが働いていることに気付くなら、見方がまったく変わるのではないでしょうか。同じように、わたしたちは自分よりも立場の弱い人、小さい人に向かう時、とかく「何かをしてあげなくちゃ」という意識を持ちがちですが、むしろそういう人たちの中にすでに神のわざが働いていることに目を向けると、逆にわたしたちの方がその人たちを通してたくさんのものをもらっていることに気付くのです。神の救いのわざは、人間には及びもつかない形や予想もできない時とところで示されているのですから。

神が求めておられるのは、人間が自力で善を行おうとすることではありません。そんなこと、もともと出来ないのですから。それをやろうとすると必ず、自分に頼り、自分を誇ることになって、神ののぞみ自体が見えなくなってしまいます。そうではなく、【神の愛】を示して下さったお方を信じ、受け入れることこそが神ののぞみであり、その信仰を通してわたしたちは神が行われている【わざ】に気付くことが出来るのです。

すべての人に及んでいる【神の愛】とその【わざ】に、いつも目を向けていられるよう、御一緒に祈りたいと思います。