“でもどうぞ、だれかのために、こんなわたしをお使い下さい”
マタイによる福音(マタイ 16・21〜27)
21(そのとき、)イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。22すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」23イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」24それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。25自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。26人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。27人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」
2005.8.28 年間第22主日 集会祭儀 鈴木真神父メッセージ
今日の箇所は、先週の『ペトロの信仰告白』に続く場面です。先週の箇所で「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」というイエスの質問に対し「あなたはメシア(キリスト)です」と立派にこたえ、イエスからも「幸いだ」とさえ言われたペトロは、一転して「サタン、引き下がれ」と叱られてしまいます。ここを読むたびに、“なにも「サタン」とまで言わなくてもいいのになあ・・言われたほうも相当ショックだっただろう”などといつもペトロに同情してしまいます。ではなぜ、イエスはそれほどまでに叱ったのでしょうか。それは、ペトロがイエスにとってとても重要な、イエスの出来事の中で中心とも言えることを否定しようとしたからです。そしてそれは、他ならぬ【十字架と復活】でした。ペトロにしてみれば無理もなかったでしょう。メシアである御方が十字架に掛けられる、殺されるなどとは考えられないことでした。でもそれこそが、つまりイエスが《十字架に向かうメシア》であることが、神ののぞみであり御計画だったのです。
「神のことを思わず、人間のことを思っている。」神が何をのぞまれているか、何を求めておられるかではなく、“自分”の思い、すなわち〈自分が〉こうなりたい、〈自分が〉人をこうしたい、まわりをああしたいという思いを優先してしまう時、わたしたちはえてして《神の思い》とすれ違ってしまうのです。「邪魔をする者」とここで訳された言葉は直訳だと“ゆくてをはばむもの”という意味で、「引き下がれ」はやはり直訳で“わたしの後ろに退け”という意味だそうです。悪意はなかったにしろ、イエスが歩もうとしている神の御計画の道をペトロは〈人間の思い〉から阻もうとしてしまった。そんなペトロにイエスは“私の後ろに下がれ”といわれたのです。自分の思いではなく《神の思い》を優先し、イエスにひたすら従って歩むこと・・そんなキリストの弟子のあり方が、ここで提示されているとも言えるでしょう。だからこそ、“欲しがるのではなく「使って下さい」と差し出しなさい”と言われるのです。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、わたしのために命を失う者はそれを得る」わたしたち人間はどうしても色々と“欲しがり”ます。わたしのために、わたしたちのために、あれが欲しい、これが欲しい。でも神が求められている姿勢は、《あなたのために、あなたがたのために、どうぞこんなわたしをお使い下さい》なのです。みんながそんな生き方を求めることが出来るならば、わたしたちはそれほど“欲しがら”なくてもすむはずです。
先週もお話したように、イエスにしたがって歩もう、神の呼びかけに応えようとする時、神御自身が必ずわたしたちのするべきことを示して下さるはずです。それを〈人間の思い〉で見てしまうのではなく、《神の思い》という視点で見ようとすることが大切なのでしょう。ただし《神の思い》の中にはわたしたちにとって都合の悪いもの、時にはいたみをともなうものも含まれているかも知れません。でもその《神の思い》が、もともとは神がわたしたちをこよなく愛して下さっているという【神の愛】からのものに他ならないことに気づく時、わたしたちは自分が“欲しがる”のではなく自分を《お使い下さい》と言えるのだと思います。
まあ、立派に信仰告白をしたペトロでさえたびたびイエスに叱られているのです。それを考えればあまり心配することもないでしょう。わたしたちも“欲しがり”過ぎてたびたびイエスに叱られつつ、〈人間の思い〉とは違う《神の思い》へと、いつも招かれているのです。そこにある確かな【神の愛】に触れながら、「あなたがいちばんご存じのように、こんなわたしです、これしかありません。これ以上は出来ません。でもどうぞ、だれかのために、だれかたちのために、こんなわたしをお使い下さい。」と共に言い続けることが出来るよう、御一緒に祈りたいと思います。
