マタイによる福音(マタイ14・22-33)
22〔人々がパンを食べて満腹した後、〕イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。23群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。24ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。25夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。26弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。27イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」28すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」29イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。30しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。31イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。32そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。33舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。
2005.8.7 年間第19主日 集会祭儀 鈴木真神父メッセージ
イエスが『湖の上を歩く』というこのエピソードは、もとは復活顕現物語、つまり復活されたイエスと弟子たちが出会うという体験の伝承に属していたのではないか・・というのが、今日では神学者の間では定説になっています。マルコとヨハネに並行箇所がありますが、マタイだけが、ペトロがイエスに呼びかけて湖の上を歩きだしたという話を載せています。実はこの話、復活節にも紹介しました。マタイ福音書の最後の28章で、復活されたイエスに出会った弟子たちの中に「疑う者もいた」と記されています。これは弟子たち全部にかかる言葉で、弟子たちの中の何人かが疑ったというよりも“全員に疑う要素があった"というニュアンスの言葉だそうです。この「疑う」が今日の箇所のイエスの言葉「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と同じ単語で、福音書中にこの二カ所しか出てこないのだそうです。ここで「疑う」と訳されたギリシャ語の〈ディスタゾー〉のもとの意味は“心が二つの別々の方向に向かってしまう"ことだそうです。復活のキリストに出会っていながらも100%信じ切れていない弟子たちの状態、これは今日の箇所にある、イエスを見つめつつ歩みながらもふと周囲の厳しい状況に尻込みして溺れかけてしまうペトロの姿に象徴されている、と言えます。そしてまさに、わたしたちも同じでしょう。キリストに従いたいと強く願いながらも、従い切れない弱さをどうしても抱えて生きているのが現実です。
最近、「怠りの罪」というものを実感する出来事がありました。あることに「気づかなかった」ことから、人を深く傷つけてしまったのです。愕然としました。いつも神に目を向けていたいと願い、向けているような気になっていて、実はそれていたことに「気づかなかった」。深く反省する中で「あ、これって『怠りの罪』なのだな」と妙に実感しました。今までは「怠りの罪」という言葉自体が大嫌いで、何か善いことができるのにそれを“怠った"といったような、どうも偽善的なものと決めつけていました。ミサの回心の祈りで『わたしは、思い、言葉、行ない、怠りによって、たびたび罪を・・』と唱える時も、どうもそこだけ引っかかって「所詮できることはいつだって神がさせて下さってるのに・・」などと思っていました。しかし、気づいたのです。「気づかなかった」「知らなかった」ことが、場合によっては“罪''の状態になってしまうことに。もっと見ようとしなかった、もっと神の御旨がどこにあるのかに目を向けようとしなかったことこそが``怠り"であったことに。わたしの日常もペトロと同じ失敗の連続です。でもそのたびに「まったくもう。だからこっちを見ろって言ってるだろ!」と言いながらもいつも手を差し伸べて下さっているキリストを強く感じます。人を傷つけてしまい、自らも傷つきながら、でもその中で神がわざを行なって下さっていて、それに気づいて癒される。これこそキリストの復活ですね。弱いわたしたちは、弱いからこそ、神に助けられ気づかされていく連続で、そのために復活されたキリストがいつもわたしたちと共にいて下さるのです。
今日の箇所を読むたびに、ある人から聞いた話を思い出します。「砂浜で真っ直ぐ歩こうと思ったら、遠くの目標物をひたすら見つめて歩くとよい。足もとを見ながら歩くと決して真っ直ぐには歩めない。」海で育ったわたしは何度か試してみました。足もとを見て歩くと、砂に着いた足跡が不思議とぐにゃぐにゃになってしまっているのです。でも足もとを見ないとどうしても不安になる。やっぱりペトロですね。でもそんなことを思い出しながら、別の人の言葉も頭に浮かびました。今までの話とはちょっとポイントが違うのですが・・「Think G1oba11y,Act Loca11y(スィンク グローバリィ、アクトゥ ローカリィ)」。広い視野を持って、それでいて自分に出来ることを現実的に進めていく・・つまり、遠くにいつも目を向けつつ、足もともしっかりと・・ということでしょうか。いずれにしても神に目が向いているならば、遠くのことにしても足もとのことにしてもするべきことが示されていることに常に気づかされる・・そんな風に、自分の中では結びつきました。また時々ペトロのように沈みかけるかもしれません。そんな時は神様、キリストの差し伸べている手に気づかせて下さいね。どうぞ、よろしく。
