“家族か福音か”

マタイによる福音(マタイ1037-42

〔そのとき、イエスは使徒たちに言われた。〕37「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。38また、白分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。39自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。40あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。41預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。42はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

2005.6.26 年間第13主日集会祭儀 鈴木真神父メッセージ

「わたしよりも父や母・・息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」・・とても厳しい言葉に聞こえてしまいます。マタイはこれを《迫害状況下において、家族よりも福音の証しを優先すべきこと》というように今日の箇所に位置付けますが、それにしても少々戸惑ってしまう言葉です。ある人にはこう言われました。「イエス様や神様は特別なのだから、家族の愛とは当然比較できない。比較の対象になり得ない・・。」しかしわたしよりも少し上の世代のシスターたちが、昔は修道院に入るのは親から勘当されて当然のことだった・・などと言われるのを聞いたりすると、現実のこととして“家族か福音か"という選択があり得るのだと思わされてしまいます。ここで「ふさわしくない」と訳された言葉は”アクオシス“というギリシャ語で、二つのものを天秤にかけて釣り合うことを表す言葉がその語源だそうです。つまり、「わたし(イエス)」と「わたし(イエス)よりも家族を愛する者」が天秤にかけられて、一方が軽すぎて釣り合わない・・というわけです。実はここで天秤にかけられているのはイエスと家族ではなく、イエスと《家族を何よりも優先させてしまう者》なのです。ここでは家族愛が否定されているわけではなく、それが福音の妨げになるような場合にどうするのか・・ということだと言えます。さらに、そこには”血縁”というものをはるかに超えた、新しい絆が提示されています。イエスの時代、ユダヤ人たちはローマの支配下にあって強烈な選民意識を持ち、それゆえに”血縁”は何よりも重要なものと見なされました。しかしそこから差別や排他的意識が生じていたのも事実です。そんな中にあってイエスは、【福音】がすべての壁を超えて人と人を結ばせる絆であることを示されたのです。「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」・・これも厳しい言葉に聞こえてしまいますが、違う見方もできるでしょう。キリストの十字架は【新しいいのち】への道です。その【いのち】とはこの世限りのものではなく、神との結びつきにおいて永遠に生かされるいのちなのです。だからこそ、この世の命のようにそれを得ようと固執する必要がない、キリストの十字架と復活にあずかることによって神から一方的に与えられているのだから・・と言われるわけです。このすべてを超える【新しい命】によってわたしたちは結ばれています。そこには血縁や民族などの《縛り》は一切ないのです。「自分の十字架」などと言われると、わたしたちは往々にして自分が背負っている苦労や不幸、苦しみや悩みといったものをイメージします。でもイエスが背負った十字架のことを考えると、実はそうではない事に気付かされます。イエスは御自分の不幸や苦労を背負ったのではありません。御自分のものではない、他人の罪や苦しみを背負われたのです。つまりわたしたちにとっての「自分の十字架」も、「自分の」苦しみや不幸ではなく、他人のそれであるのです。「疲れた者、重荷を負う者は誰でも、わたしのもとに来なさい。わたしがそれを背負ってあげる」・・わたしたち自身がまず、イエスに背負ってもらっています。でもそこで、自分は果たして他人の苦しみなど背負えるのだろうか・・とも考えてしまいます。自分のものだけでも背負い切れない思いなのに、ましてやとてもイエスのようには・・と。ですからこう考えましょう。「わたしが愛したようにあなたがたも互いに愛し合いなさい」とイエスは教えられました。自分の十字架が他人を愛することであるならば、それは決して一方的ではないはずです。わたしたちも誰かに背負ってもらえる。「あなたを背負いたい、だからわたしも背負ってね」で、いいのではないでしょうか。そして何よりも、わたしたちはすでにイエスに背負ってもらっているのですから、あまり心配することもなさそうです。・・と、楽観的なわたしが言ってもあまり説得力はないでしょうか・・。さんざん「背負う」などと言ってきて今更ですが、ちなみに「(十字架を)担う」と訳された言葉は直訳だと“受け取る"になるそうです。誰かを“受け取ろう"とすること、そしてこのわたしも誰かに受け取ってもらうこと、さらにすでにわたしたちがイエスに“受け取ってもらっている''こと・・それこそが、血縁などの人間的要素をはるかに超えた【新しい絆】であるのです。それが実はすでに与えられていることに、共に感謝致しましょう。