マタイによる福音(マタイ9:3610:8)

936〔そのとき、イエスは、〕群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。37そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。38だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

10-1イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。2十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、3フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、4熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。5イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。6むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。7行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。8病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」

 

2005.6.12年間第11主日 鈴木真司祭説教

イエスが12人の使徒たちを選び、派遣される箇所です。「使徒」と訳されている言葉はギリシャ語の“アポストロスで、もともと〈派遣された者〉という意味です。ちなみに「教会」と訳されているのは“エクレジアで(呼ばれた者の集まり)。つまり、キリストに従う人は誰でも、一人の例外もなく<呼ばれ>て<派遣されて>いるのです。ただそこで派遣される前に何かもらっている、と言います。マタイ福音書によればそれは「汚れた霊に対する権能」・・何だろう?という感じですが…「汚れた霊」とは「悪霊」とも言われ、人間の中で様々な悪さをするもののようです。言葉の上から考えれば、「悪」は“神に反する要素で「霊」は“働きかけの力ですから、<神に反する何らかの力を退かせる某かの力>をもらっている…ということになるでしょうか。本当にそんな力が与えられているのか? …とも思ってしまいますが、イエスの派遣の言葉を見ると違う面も汲み取れます。「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」・・要するに人をいやす力が与えられているのです。それを「ただでもらったのだから、ただで与えなさい」と言われる。わたしたちは自分が値を払って手に入れたものと比べると、ただでもらったものというのはあまり普段意識しないのかもしれません、それが与えられているということも含めて。

 

今だからできる話でもあるのですがわたしは三年前に茅ヶ崎に赴任しました。会社などでもそうかもしれませんが、我々司察が教会を異動する時というのはかなりのエネルギーを使うものです。なれ親しんだ人たちとの別れ、新たな人たちとの出会い。しかもそれが復活祭の直後です。なかば死ぬ思いで聖週間をこなし、やっと終わったかと思うと引っ越し…なんでこの季節に異動するのでしょうね。まあとにかく、わたしも茅ヶ崎に来たときには少し痩せた位疲れきっていました。そして最初に迎えた主日で沢山の新たな人と挨拶をし…「○○です、宜しく」「○○です」「ああなるほど、宜しくお願いします。ああ、初めまして…(だって、憶えきれるわけねえだろ!)」などと不届きなことを思いつつ…11:30のミサが終わる頃には、心身共にくたくたになっていました。あ一本当に疲れた…と思いながらヨセフ館の前をフラフラしていたら、数人の中学生の女の子たちがたむろしていました。そこで、本当にたわいのない世間話…「学校はどこ?」とか「どこに住んでるの?」など…をしたのですが、気がついてみると少し元気になっていたのです!ああ、こいつらにいやされたと実感しました。どうしてか、どのようにかなどは口ではなかなか説明できませんが、今日の箇所を黙想している時、そのことを思い出しました。

 

わたしたちは、知らない間に、そして意識していないところで、人をいやす力をもらっているのです。そして無意識のうちに人をいやし、白分もいやされているのでしょう。その人がどんな人であるのかは関係ありません。「いやあ、自分になんかそんな力はない…」と思う人がいたら、どうぞ今日の箇所に出てくる12人を見て下さい。ある意味でこれはとんでもないメンバーです!ほとんどはガリラヤの貧しい漁師たち、しかも海の漁師からは少々格が低い湖の漁師たち。そして徴税人という言わばヤクザものもいれば、「熱心党」…これは当時武力でローマの支配を覆そうとした人たち、要するにテロリスト集団、ゲリラです。そんなメンバーもいるかと思うと、イエスを裏切った“裏切り者"まで…。神の選びは本当に不思議です。そこには人間の側の状態など関係ないように見えます。どんな人であっても、神はキリストを通して呼ばれ、「いやす力」を与えて下さり、そして派遣して下さる。わたしたちもまさに、使徒たちと同じように呼ばれて与えられ、派遣されているのです。

 

神が与えられる不思議な「いやし」に、わたしたちが共に、互いにあずかっていることを御一緒に心に置きましょう。


いやす力をいただいている私たち