(マタイ9:913)

9〔そのとき、〕イエスは、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。10イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。11ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。12イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。13『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 2005.6.5       年間第10主日 鈴木 真神父説教

イエスが徴税人を弟子にする、という箇所です。マタイ福音書ではこの人の名前が「マタイ」であるとされ、従ってマタイ福音書成立に何らかの関わりのあった人物であることを暗示していますが、マルコとルカでは「レビ」という名になっています。いずれにしても三福音書に記載されていることで、イエスの弟子に徴税人がいたことは確実であると言ってもいいでしょう。

当時ローマ帝国はその支配下にあった国々に人頭税を課していて、その徴税を請け負っていたのが「徴税人」でした。面白い方法ですが、街の入り口に収税所を建ててそこを通る人たちから通行税のような形で取っていたそうです。またローマはこの徴税権を入札制度で売り出し、より高い値を提示した徴税人のグループがそれを買い取りました。もう後は人々からは取り放題で、かなり暴力的に、しかも多額の税を取っていたようです。従ってユダヤ人たちからは売国奴・裏切り者として蛇蝎のごとく嫌われながらも、反面とても恐れられてもいました。そんな「徴税人」を、イエスは弟子に呼ばれたのです。まわりの人は皆、おそらくすでに弟子だった者たちも含めてブッとんだ事でしょう。

福音書が「罪人」という言葉を使う時、聖書全体が提示する「罪」という概念ではなく、実はそれはファリサイ派や律法学者たちから見た言わば「レッテル」を意味するものです。イエスの時代、ユダヤ人たちは強烈な選民意識を持っていました。そこで“イスラエルの民”とされる重要なポイントは、血のつながりもさることながらむしろ《律法を守っているか否か》にありました。律法を守らない者はイスラエルの共同体の一員とは見なされずに「罪人」というレッテルを貼られ、当然、徴税人はその筆頭格です。だから人々はイエスの弟子たちに「あんたたちの先生は一体何を考えているんだ!」と迫ったわけです。自分たちの範疇には無い、有り得ないこと、あってはならない事だったのです。

イエスが人に出会う時、イエスは言わばその人の【外側】を一切問題にしません。つまりその人の年齢や性別、杜会的地位や職業などです。イエスはただ【その人】として見るのです。これはすごい事で、たぶんわたしたち人間には不可能に近い事でしょう。わたしたちは初対面の人に出会う時、自分と同性か異性か、自分より年下か年上かで意識が変わるでしょうし、社会的地位や職業もその人をどう見るかに影響します。そしてわたしたちがおそらく最も問題にするのは、その人が今まで何をしてきたのか、ということでしょう。でもイエスはただ【その人】としてしか見ない。これは、神が人間をどう見られているかを示すものに他なりません。神はどんな人間であっても、ただただ【大切な一つのいのち】として見て下さっているのです。でもわたしたち人間は自分に対しても人に対しても【外側】を問題にし、それに頼っています。

だからこそ《偏見》を持って人を見てしまうのでしょう。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」・・この言葉はイエス一流の皮肉であるように聞こえます。どうしても《偏見》を持って人を見てしまうわたしたちは「病んでいない」と言えるでしょうか。それどころか、わたしたち不完全な人間は程度の差こそあれどこか必ず「病んでいる」のです。現代では特にそうですし、イエスの時代もそうだったでしょう。

そんなわたしたちを神はただ【その人】として受け入れ、愛し、癒して下さる。

「わたしが来たのは罪人を招くためである」・・すべての人間が罪人です。わたしたちはいつでもそのことを忘れがちで、人に対して《偏見》を持ち、人を差別し、自分を安全なところにおこうとします。でも、神は違う。そのことをいつでも心において歩んでゆくことができるよう、共に祈りましょう。

イエスは徴税人を弟子に