わたしがずっと共にいるのだから。

(マタイ281620

 16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。17そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

 

200558 主の昇天      鈴木 真神父説教

 「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」マルコの並行箇所では、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」となっています。2000年前の時代、弟子たちにとっての「全世界」は今のような地球規模での広さではなかったんでしょうけれども、今まさに「全世界」にキリストの教えが広まっていることを考えると、ある意味で本当にすごいことだと思います。無論、この2000年のキリスト教の歴史を振り返ると、実に様々な事があったしすべてが良いことでは決してなかったにしろ、今や文字通り地球規模で福音が宣べ伝えられているのは事実です。そしてそれを可能にしているのがこのマタイの最後の部分、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というキリストの言葉に他ならないでしょう。この聖句に出会うたびに、すごい言葉だとつくづく思います。「世の終わり」と言うのだから、それを直接聞いた弟子たちをはじめわたしたちがこの世を去った後もキリストは「共にいて」下さる。だからこそ、全世界に福音が宣べ伝えられ得るのです。

 弟子たちの派遣にあたって気になる一言があります。「しかし、疑う者もいた」。これは弟子たちの中の一部が疑っていたというより、「弟子たち」全体にかかる言葉なのだそうです。つまり弟子たち皆が言わば“不完全”であったことをあらわす表現だと言っていいでしょう。「疑う」と訳された言葉は〈ディスタゾー〉というギリシャ語で、“心が二つの異なる方向に向かう”という意味だそうです。福音書でこの言葉が出て来るのはもう一箇所だけで、マタイ14 22〜イエスが『湖の上を歩く』というところです。これも『変容』の箇所と同じくもともとは復活顕現物語に属していたのではと言う学者が多いですが、とにかくある日船にのった弟子たちにイエスが湖の上を歩いて近づいてきます。弟子たちは「幽霊だ」と言っておびえますが、イエスが「恐れるな、わたしだ」と言うとぺトロが「主よ、あなたでしたらわたしをそこまで行かせて下さい」と言います。イエスが「来なさい」と言うとぺトロも湖の上を歩きだしますが、しかし途中で強い風に気付いて怖くなると、沈みかけてしまいます。イエスはすぐにぺトロを助けて言います。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。イエスに従いたい、後についていきたいという心と、従い切れない弱さ、回りが気になり目が他のものに向いてしまう要素が同居している状態‥それが 〈デイスタゾー〉なのだと思います。復活されたキリストに出会った弟子たちはまだまだ不完全で、キリストに従い切れていない弱さを持ち合わせている‥でもそんな弟子たちをイエスは言わば“丸ごと”派遣され、そして【永遠に共にいる】と宣言なさるのです。前にも申し上げたように、キリストの『昇天』とはキリストが離れてしまった体験ではなく不思議な形でいつも「共にいて」下さるということ、つまり 《キリスト臨在のしるし》なのです。そしてそのことがまさに「全世界に福音が宣べ伝えられる」のを可能にしているのです。

 わたしたちも弟子たちと同じです。何かを仰せつかる時、「いや、わたしにはとうていできない」「他に適任者がいるでしょう」「荷が重すぎます」としばしば尻込みしてしまいます。でもそんな時、キリストがいつもわたしたちの耳元でおっしゃっているのです。「いや、もうあなたはすでに派遣されているよ。人間が不完全な存在なんて事は、十字架にのぼったこのわたしが一番よく知っている。そのあなたが、もうすでに派遣されているのだ。だから心配ない。「わたしがずっと共にいるのだから。」

 いつもわたしたちと共にいて下さるキリストの存在を、様々なところで御一緒に感じたいと思います。