呼ばれ続けている私たち

「羊の囲い」のたとえ(ヨハネ10110

10 1「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。2門から入る者が羊飼いである。3門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。4自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。5しかし、はかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」 6イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

7イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。8わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。9わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。10盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにはかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

 

2005417 復活節第四主日 鈴木 真神父の説教

 父である神とわたしたちとの関係、あるいは新約ではイエス・キリストとわたしたちとの関係を「羊と羊飼い」にたとえるのは聖書では割と多く見られます。それほどどちらとも当時のパレスチナの人々にとって身近な存在だったのでしょう。ヨハネのこの箇所を読むたびに、わたしはこの言葉に目が留まります。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」いつもすごい!と思います。神はわたしたちを言わば“名指し”で呼ばれている。他の誰でもない、この《わたし》でなければダメという形で。高校や大学の時、「代返」というのがありました。出席点呼の時、自分の代わりに誰かに返事をしてもらってあたかも授業に出ているかのようにしてサボる。わたしは自分も何度かやってもらいましたし、人の代わりに何度か「代返」しました。大学の時ある授業の30秒前位に、まわりに座っていた友達五人位が「おい鈴木、代返頼むな」「俺も」「俺もヨロシク」などと言って次々に教室を出ていってしまいよした。「ちょ、ちょっと・・」という間に先生が入って来てしまって、とんでもないことになりました。五人分、声色を変えて返事をしましたが、さすがに先生にもバレていたでしょう、だって見るからに目の前にいる人数より多くの返事が返ってくるのですから。‥神様には「代返」がききません。

 

時々わたしたちはこんなふうに考えるでしょう。「なんでわたしなのか?他にふさわしい人がいるのに‥」でも、神の目からは“あなたでなければダメ‥”なのです。神の呼ばれ方は実にストレートです。同時に、それほど神にとってこの《わたし》が、わたしたち一人ひとりが大切なのだということでしょう、『百匹の羊のたとえ』にあるように。百匹のうち一匹が迷ってしまったら、迷ってない99匹を山において捜しに行く。場合によっては1のほうが99より重いのです。これはわたしたち人間の価値観とは全く違った【神の物差し】です。聖書の時代、果たして羊一匹ごとに名前を付けていたかどうかはわかりませんが、数年前こんな話を聞きました。日本のある養鶏農家では、鶏一羽ごとに名前を付けて育てているんだそうです。それほどまでに大切に育てられた鶏の卵は、実に素晴らしい味だそうで‥とまあ、この場合は食べちゃうんですけど、2000年前に羊も名前が付けられていなかったとはあながち言えません。そしてこの言葉にも目が留まります。「羊はその声を知っているのでついて行く。」羊はちゃんと羊飼いの「声」を知っていたんでしょう。同じように、わたしたちも実はもうわたしたちを呼んで下さっている方の「声」を知っている。“呼ばれている”事に後から気付くこともあるでしょう。

 わたしなどはそうです。今までの自分の歩みを振り返ってみる時、「ああ、あの時は確かに神に呼ばれていたんだ」と強く感じることが沢山ありますけど、その時はあまりそう感じていなかった。逆に、この前引き合いに出したマザー・テレサやアシジのフランシスコなど、まさにその時に強烈に“呼ばれている”事を感じる体験をする人もいるのでしょう。そして神が呼ばれるのは決して一回限りではありません。わたしたちは常に神に【呼ばれ続けている】のです。

 今日は「召命祈願日」に当たっています。もちろん、司祭や修道者を目指して歩んでいる人たちのために祈っていただきたいですが、そればかりでなく、わたしたち一人ひとりにとっての【神からの呼びかけ】に目を向けましょう。それに気付くことができるように、そしてそれぞれの仕方でその【呼びかけ】に応えてゆくことができるように、御一緒に祈りたいと思います。