同時進行的に世界で出会ってくださっています。

ルカ(241335)エマオで現れる

13ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14この一切の出来事について話し合っていた。15話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。17イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何ぞ」とですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。18その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」19イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。21わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくだきると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。22ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。24仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」25そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

28一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。29一人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」 と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。30一緒に、食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。32二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。33そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、34本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

2005410復活節第三主日 鈴木真神父の説教

エマオに向かう二人の弟子が復活されたイエスと出会う‥この話はマルコ福音書の終わりのほうにも短く出てきます。マルコの最後は後の時代に書き加えられた部分と言われていますが、それにしても復活の記事は各福音書で食い違う要素が多いことを考えると、珍しく共通した出来事であると言えます。まず読んでいて「あれ?」と思うのは、何でこんな大変な時に旅をしているのだろう‥ということですが、実はこの二人、エルサレムから逃げ出して来たんですね。なぜ逃げたのか、この弟子自身の言葉から明らかになります。「わたしたちはあの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」‥ローマの支配を覆すこの世的な王としてイエスを考えていたわけです。そのイエスが十字架にかけられて殺されてしまった。三日たって墓が空っぽだったという噂が立っているけれど、もうダメだ、逃げ出そう‥とまあ言ってみれば“都落ち”しているこの弟子たち、そんな二人に復活されたイエスは出会って下さいます。〈勝ち組〉だけでなく、〈負け組〉にもイエスはちゃんと出会って下さる。しかしそれを言うなら弟子たちはみんな〈負け組〉かも知れません、十字架に際しては一人残らず逃げ出してしまったんですから。ヨハネ福音書だけが、ヨハネという若い弟子が婦人たちとイエスの死を見取ったとしていますが、ヨハネ福音書が一番遅い編集であったことを考えると‥それが事実であったかどうかはなんとも言えません。もちろんこのルカの箇所にも編集者の手がかなり入っているそうですが、それにしてもこの二人、こんなふうに言うんですね。「わたしたちの心は燃えていたではないか。」‥逃げた弟子たちをも燃え立たせて下さる、これぞまさにキリストの復活!と言っていいのではないでしょうか。そしてこの二人、時を移さずエルサレムに戻るわけですが、すると他の弟子たちは「イエスは本当に復活してシモンに現れた」と言っています。つまり《同時進行的》にイエスはシモンとこの二人の弟子に出会っているのです。

一つ言えることは、復活したキリストとの出会い、それは全く一方的に与えられるものであるということです。これは神からいただく恵みの原則に他ならないでしょう。わたしたちが徳や善をつんで初めて神は恵みを下さるのではなく、人間の側の状態に関係なく、神は全く一方的に常に恵みを与えられています。それと同じく、一生懸命勉強してキリストのことをよく知った人だけがキリストに出会うわけではないのです。復活したキリストとの出会い、それもまた一方的に与えられる神からの【恵み】であるのです。今や世界中で計り知れないほど多くの人たちが《同時進行的》にキリストと出会っている‥これは本当に、大きな恵みであると思います。

 御存知のように、金曜日にローマで教皇ヨハネ・パウロU世の葬儀が執り行なわれました。衛星放送を観た方も多いかと思いますが、わたしは土曜の朝刊の一面の写真を見て驚きました。サン・ピエトロ広場が人でいっぱいで、さらにそのずっと向こうの通りのほうまで人、人、人‥。無論各国の政府要人なども多かったのでしょうが、教皇様が本当に沢山の人々に愛されていたということを実感しました。と同時に、考えてみればこの人たちの殆どがキリストと出会っている‥と妙な感慨を受けました。教皇様の死はもちろん悲しいことではありますが、前にも話したようにその「死」を通して神は様々な恵みを与え、働きかけておられる。それこそが、【キリストの復活】であると言えるのだと思います。一貫しで戦争に反対し、愛し合いゆるし合うことを叫び続けられた教皇ヨハネ・パウロU世のメッセージを教会がしっかりと受け継ぎ、いつもわたしたちと出会い続けて下さるキリストへと目を向けることができるよう祈るとともに、教皇様の永遠の安息を御一緒に祈りたいと思います。