キリストとの出会い、それこそキリストの復活

皆さん、御復活おめでとうございます。キリストの復活、それはわたしたちにとって一言で言えば「出会い」に他なりません。2000年前、弟子たちにとってもそれは「出会い」の体験でした。十字架にかけられたはずの方に出会う、という体験です。その出会いが弟子たちにとってどれほど大きなものであったか、それはその後の弟子たちの変貌ぶりと力強い宣教から明らかです。そして、まさにその「出会い」が教会を生みました。以来2000年、その「出会い」はわたしたちの間でずっと続いているのです。
今年の四旬節の中で、わたしは妙に「復活」について納得しました。教会報にも書きましたが、約20年ぶりに映画『ブラザーサン、シスタームーン』を観たのです。今年度わたしは横浜雙葉で中学一年生の宗教の授業を担当しましたが、一緒にその授業を担当している信者の先生と相談して、三学期に修道者について生徒たちに説明するために『ブラザーサン、シスタームーン』を観せることにしました。御存知の方も多いと思いますが、これはアッシジのフランシスコの物語の映画です。20年前に観たときはわたしも若かったですし、ただただフランシスコの姿に感動した覚えがありましたが、久しぶりに観てみると、懐かしさと同時に色々なことに気付かされました。まあとにかく若くしてよくあんな全てを捨てられたものだ‥と。自分の若い頃を思い出してみると、逆に欲しい物だらけでした。車が欲しい、バイクが欲しい、CDラジカセが欲しい。物だけでなく人も欲しがりました。彼女が欲しい、自分を理解してくれる人が欲しい、自分を支えてくれる人が欲しい。ですから、フランシスコの『平和の祈り』もなかなか理解できませんでした。理解するよりも自分が理解されたい、愛するよりも自分が愛されたい、と。あの祈りを本当に心から唱えられるようになったのは、司祭になってから、いや厳密に言えばわりとごく最近だ‥ということにも気付かされました。いやいや、あの頃の自分にはとても無理だった‥などと実感していると、自分の中で別の声が聞こえてきました。「おいおい、いつもお前が人に言ってることと違うじやないか。“自分が”ではなくて“神様が”だろうが。」ハツとしました。そうだ、フランシスコのあの生き方を可能にしたのは神御自身、神のわざに他ならないのだ、と。サンダミアーノの廃虚になった聖堂の中でフランシスコが聞いたというキリストの呼びかけ、「ここを修復せよ」‥あれはまさに「出会い」じゃないか。キリストとの「出会い」によって変えられる‥これこそ復活に他ならない!と気付いたのです。
こんなことを言うと諸先輩方に怒られますが、最近40の坂を越してから妙に歳を感じるようになりました。冬ってこんなに寒かったっけ?とか、夏ってこんなに暑かった?‥まあ昨年の夏は確かに暑かったのですが、耐えられないほど暑いと感じるようになりました。関節が痛い、とか休んでも疲れがとれない、とか‥目を細めて字を読んでいると、先輩司祭から言われました。「はっきり言ってやる。それは老眼だ」‥いやいや、自分も立派な中年だ‥などと思っていると、マザーテレサのことが思い出されました。マザーが単身カルカッタのスラムに入っていったのは‥47歳だっけ?‥いずれにしても今の自分より年上。うわ−信じられない。有り得ない。自分にはとても無理だ。でもそれも違う、と気付いたのです。マザーのあの生き様だって、神のわざなのだと。
わたしたちは聖人たちの偉業と言われるものに目を向けると、しばしばひるんでしまいます。自分にはとても無理だ、と。でも違うのです。聖人たちの人間的な才能や能力がそれを可能にしたのではなく、それをなさったのは神御自身なのです。司祭叙階の時のことも思い出しました。叙階式の中で受階者は色々なことを司教に約束します(最近、なんか約束事が増えたようですが‥)。時には自分一人の力では難しい事柄については「神の助けによって、約束致します」とこたえます。でもそのやりとりの一番最後に、司教が言うのです。「あなたのなかに良いわざをお初めになった神御自身がそれを完成して下さいますように。」すべては神のわざ、「出会い」によってその神のわざに身を委ねることによって、人は変えられてゆくのです。そして、それこそが「キリストの復活」であると言えるでしょう。「知っている」事と「出会う」事は違います。フランシスコは幼児洗礼者(わたしもですが)、マザーテレサは修道女でした。それだけでは足りない「出会い」が、あるいは一回ではない「出会い」がフランシスコやマザーや、そしてわたしたちにも常に与えられているのです。また後から気付く「出会い」もあるでしょう。エマオヘ向かっていたあの弟子たちは、復活したキリストに出会ったのに、最初はそれがキリストだとは気付きませんでした。「すでに出会っていたんだ」と気付く瞬間が、「時」があるのです。
今日これから洗礼を受けられる方々も、それぞれキリストとの出会いを通して、今ここにおられます。そのことを考えただけでもまさにそれこそが復活!と感じますが、なかには「いや、まだ自分は出会ってない‥」と思っておられる方もいるかも知れません。でも実はもう出会っているんです、だからここに導かれているんです。「キリストの復活」という計り知れない大きな恵みを、これから受洗なさる方々と分かち合い、そしてその大きな喜びを、一人でも多くの方に伝えたいと思います。