死をとおしてなさる神の偉大なわざ

ラザロの死(ヨハネ113717202733b45)     

3姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。4イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」 5イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。6ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。7それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」

17さて、イエスが行ってごらんになると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。

20マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。21マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。22しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」23イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、24マルタは、「終わりの日の時に復活することは存じております」と言った。25イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」27マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

33イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、34言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。35イエスは涙を流された。36ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。37しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

38イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。39イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。40イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。41人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。42わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに.信じさせるためです。」 43こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。44すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。45マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。

 

 2005313四旬節第5主日鈴木真司祭の説教

 

 もう56年前のことです。前任地の教会にいた時ですが、ある年の夏頃にちょうど百歳になったばかりの男性の方が亡くなりました。その方を昔からよく知っていらっしゃるある御高齢の神父さんがいらして通夜で説教をして下さったのですが、その神父さんはのっけからこう言われました。「わたしは人が亡くなった時、それがたとえどんな亡くなり方だったとしても、どんな場合でも『おめでとう』と言いたい。」‥な、何を言い出すんだ‥とドキドキしましたが、その話は次のように続きました。

 

「なぜならば、すべての人はこの世に生まれてきたとき皆に『おめでとう』と言われる。その命がこの世に生まれたことを、誰よりも神様が喜んでおられるしるしだと思う。だとするならば、その命が一定の生涯を生きた後に再び神の御元に戻ってゆく時、神御自身が諸手を広げて迎えてくれないはずがあろうか。だから、その人に対して再び『おめでとう』と言いたい。」‥なるほど、その通りだと思いました。「死」というものに対する違う見方を、今更ながらに教えていただいた思いがしました。

 

葬儀というのは続くもので、その一週間後に今度は70代の男性の方が亡くなりました。その方は癌で長年闘病され、言わばその人なりに「死」を見つめて準備されてきて、それだけにその「死」も静かで落ち着いたものでした。亡くなる半年ほど前に病床で洗礼をお受けになったのですが、力強く「わたしは神様を信じます。イエス・キリストを信じます」とおっしゃっていました。亡くなる少し前にいよいよ危ないと再び病床に呼ばれたのですが、御家族全員が病室に集まり、お孫さんたちも見守る中で病者の塗油を受けられました。その方が亡くなられたと聞いた時、家族みんなに見取られて亡くなるなんて幸せな死に方だな‥などと思ったのですが、葬儀の時、小学生や中学生のお孫さんたちが立派に共同祈願を先唱している姿を見て、いやこれは逆だったかな‥と考え直しました。子供たちが人の「死」というものに正面から向き合う機会が少なくなったこの時代にあって、その方は人生の最後にお孫さんたちに肉親の「死」という最高のプレゼントをして下さったのだ‥と、むしろ幸せなのはお孫さんたちだったのではないだろうか、と。

 

 「死」というものは人の目から見たら悲しいこと、忌まわしいものとマイナスのものとしてどうしても映ります。しかし「死」を通してさえも、いや「死」を通してこそ、神はそこで実に偉大なわざをなさっているのです。

 

 今日の箇所である『ラザロのよみがえり』ですが、なぜこれほどヨハネがこの出来事を生々しく描くのか少々疑問です。聖書学者によれば、ヨハネ福音書ではイエスがラザロを生き返らせたことで決定的にイエス殺害の計画が現実化する、つまりそこにまさにイエス御自身の受難が重ね合わされている‥そうですが、むしろ先週の箇所からの流れで読むならば他のことも感じざるを得ません。先週は生まれつき目の見えない人の話でしたが、弟子たちがイエスに「この人の目が見えないのは誰かが罪をおかしたからですか?」と聞くとイエスは「いや、神の栄光があらわされるためだ」と言います。今日の箇所でもイエスは同じく「この病気は死で終わるものではなく‥神の栄光のためだ」と言うのです。もちろん、結局は目の見えない人は見えるようになり、ラザロは生き返っちゃうわけですが‥違う見方をするならば、人がマイナスとして見ている障害や死というものを通して、神はなんとも不思議なわざを行なわれる‥とも受け取れないでしょうか。そういうことって、わたしたちの身の回りに案外多くあるものです。

 

 人間の目から見たら悲しいこと、苦しいこと、つらいこと、失敗だと思うこと、無駄だと見えてしまうこと‥実はそんな出来事の中に神の救いのわざが、神の「栄光」が示されているのです。神のなさることは本当に不思議で、でも実に救いの要素に満ちています。ある神父さんは「神は禍転じて福となす」などと表現されていました。そんな神の不思議なわざを、お互いに感じ合うことができるよう御一緒に祈りたいと思います。