どろどろの現実のなかにこそ「十字架」の救い

マタイによる福音(マタイ171~9

〔そのとき、〕イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。2イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。3見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。4ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」5ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う音。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。6弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。7イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」8彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。

9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。 

2005220 四旬節第2主日  鈴木 真神父様 説教    

  『主の変容』というタイトルが付けられている箇所です。イエスの姿が変わる、という不思議な出来事の記事ですが、マタイ・マルコ・ルカの三つの共観福音書にはすべてこの記事が記載され、毎年四旬節の二番目の日曜日には、この『主の変容』の箇所が読まれることになっています。位置付けとしては、いずれの福音書でもイエスによる第一の受難予告の直後に置かれています。イエスが弟子たちに「あなたたちはわたしを何者だと言うのか」と質問され、ぺトロが「あなたはメシア、救い主です」という信仰告白とも言える模範回答をするのですが、それに続いてイエスは最初の受難予告をされます。「わたしは必ず、十字架につけられて殺されるよ」、と。メシアである御方が十字架につけられるという、とうてい理解できない言葉におそれおののく弟子たちを、まるで励ますかのように神はイエスの復活の栄光の姿を垣間見せる‥というのがこの『主の変容』の箇所の位置付けであるわけですが‥やはりどうも、ここには違和感を感じざるを得ません。

 

まるでトンチンカンなことを言うペトロの言葉もさることながら、もし本当に弟子たちがイエスの復活の栄光の姿を垣間見たとするならば、その後にも続くイエスに対する弟子の徹底した無理解と、十字架の出来事に際しての弟子たちの逃亡という行動とがどうにも結びつかないからです。最近の多くの聖書学者の指摘によるならば、どうやらこの箇所はもともと「復活顕現物語」、つまり復活されたイエスと出会うという弟子たちの体験、もしくは福音書が「昇天」として描く体験を語る物語、それに属する資料だったのではないか、ということです。それが何かの拍子にイエスの生前に組み込まれることになったのではないか、と。確かにそうして考えてみるならば、割と納得がいきます。イエスの「復活」を表現する時に使われている言葉も多く見られますし、イエスが受洗時に聞いたとされる「神の声」とまったく同じ言葉も、こっちが元の資料ではないか‥という指摘もあったりします。

 

 まあそのことはさておき、今日の箇所に福音的メッセージを見出すならば、それは《十字架の中にこそ神の栄光がある》と言うことではないでしょうか。無論復活を経て初めて弟子たちはその十字架の意味を悟るわけですが、逆に言えば十字架があったればこそ、でもあるのです。イエスは《十字架に向かうメシア》です。逆説的ではありますが、そのことの中にこそ「神の栄光」が示されている‥とも言えるのです。毎年四旬節を迎えるたびに思うのですが、わたしたちは無意識のうちにキリストの十字架をある意味で「美化」しようとしてしまいがちです。どうも生々しい「十字架」はあまり見たくない‥という意識もあるのかも知れません。

昨年は『パッション』という映画が話題になり、皆さんの中にも御覧になった方が多いと思います。賛否両論ありますが、
あの映画がわたしたちに投げかけた一つの重要な点は、「十字架」がまさに現実そのものであったということです。イエスが十字架につけられるに到った過程での人間的要素を見るならば、そこには人間の欲望や妬み嫉み、そして何よりも罪という要素が満ち満ちています。神はそんな人間の言わばドロドロの現実の真っ只中に、「十字架」という救いを置かれたのです。そんな人間をも、御自分のひとり子を十字架につけさせてまで、救おうとなさった神の愛の計り知れない大きさ‥それこそが「十字架」に示された《神の栄光》に他なりません。人の目からは一見救いがないと映ってしまうような、人間のドロドロの現実の真っ只中、実はそこにこそ、神は「救い」のしるしを置かれているのです。

 

そのことは、現代に生きるわたしたちも同じでしょう。今年もカリタスジャパンから四旬節にあたって『ひびき』という小冊子が出されました。ぜひお読み下さい。世の中に、実に様々ないたみ苦しみを負っている人々がいる、まずはわたしたちは四旬節にそういう人たちに目を向けるべきでしょう。そんな現実の真っ只中に、神は必ず「救い」のしるしを置かれているはずです。もちろんそこには、わたしたち自身が負っているいたみ苦しみも含まれるかも知れません。洗礼志願者となった方々と共に、その「救いのしるし」に目を向け、苦しむ人たちに手をさしのべることができるよう祈りながら、四旬節を過ごしていきたいと思います。