あなた方は地の塩、世の光
マタイによる福音(マタイ5・13ー16)
〔そのとき、イエスは弟子たちにいわれた。〕13あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。14あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。15またともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。16そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
2005・2・6 年間第5主日 鈴木 真神父の説教
雨の日の夜に、高速道路を運転した経験がおありしょうか。車を運転なさらない方は想像しにくいかも知れませんが、雨の晩に高速道路を走るのはかなり危険ですし、運転していてもとても恐いものです。わたしが司祭になって初めて赴任したのは、長野県の松本の教会でした。長野県は広いですし、月に二度ほど神奈川県に出てくる用事もあったので、しょっちゅう高速道路を走っていました。松本にいた二年間での走行距離はかなりのものになりました。ある日松本に夜戻るために、中央高速を走っていました。どしやぶりの大雨で前が全然見えません。水滴が光ってしまって、車線もはっきり見えないくらいで、もちろんゆっくり走っていましたが、それでもかなり恐い思いで運転していました。御存知のように高速道路というのは、都心を離れると明かりが一つもありません。インターチェンジ近くにあるだけで、例えば山の中を走っていたりするともう真暗なのです。その時は夜遅い時間だったこともあって回りには走っている車がなかったのですが、しばらく走ると前方に一台の車のテールランプが見えてきました。その赤い光が、とてもよい目印になったのです。雨の晩に高速道路を運転している時、前に走っている車があるかないかではかなり安心度が違います。ただあまり近づき過ぎて、それがダンプカーだったりすると、逆にものすごい水しぶきを浴びて大変なことになるのですが‥。
今日の福音の「あなたがたは地の塩、世の光」という箇所を読むたびに、そのことを思い出します。雨の晩の高速道路の、前方車のテールランプ。走っているその車の運転者は自分の車のテールランプが後ろの車にとって目印になっているなどとは意識してないでしょうし、むしろ自分が走るのに必死でしょう。でもその車の存在自体が、後続車にとって計り知れない安心材料になっているのです。そんなことって、他にもあるのではないでしょうか。わたしたちは知らず知らずのうちに、誰かの助けになっていたり、それを意識していないところで誰かにとっての救いとなっている。今日の箇所の最大のポイントは、「あなたがたは地の塩になれ、世の光であれ」といった、言わば努力目標を設定されているのでは決してないということです。それどころか、「その、ありのままのあなたがたがもうすでに地の塩・世の光なのだよ」と言われているのです。ただ誤解されがちなのですが、その「塩」や「光」とはわたしたちのなにがしかの才能や能力を指すのではありません。マタイは「あなたがたの立派な行ない」などと書くので(ちなみにここはマタイの挿入句です)、そう聞くと何か大層なことをしなければいけないのでは‥などと考えがちですが、それがもしわたしたちの才能や能力によってなされるものであるならば、「人々」は「あなたがた」をほめるはずです。そうではなく「あなたがたの天の父をあがめるようになる」と言われているということは、それ自体が神のわざである、ということなのです。わたしたちを通して、神御自身が働かれている。わたしたちが「塩」であり「光」であると言われるのは、神のわざの道具として使われていること、と言い換えてもいいかも知れません。
第一朗読に「そうすればあなたの光は曙のように射し出で」とあります。第三イザヤと言われる部分ですが、この著者は何が本当に神に喜ばれることなのか、何がもともとの人間の《本性》であるのかについて、一つの結論を出しています。旧約聖書が提示する神の本性とは、《神は御自分の創られた一つ一つのいのちのいたみ苦しみに、決して無関心ではいられない方》ということですが、“神の似姿”として創られた人間にはその同じ心が与えられている。つまり人間の本性ももともとは《いのちのいたみ苦しみに敏感に反応すること》として与えられているのです。言わばそれがわたしたちにとっての「塩」であり「光」である、とも言えるのでしょう。
そのことに気付き、目を向けようとする時、わたしたちに与えられた「光」はいっそう輝くのです。神は人を実に不思議な形で使われます。わたしたちの中に、そして人の中にその人にしかない「塩」「光」が与えられていること、それを神が上手にお使い下さることに目を向け、その賜物の計り知れない大きさに、共に感謝を捧げたいと思います。