イエスに呼ばれたわたしたち

ガリラヤで伝道を始める(マタイ4:12〜22)

12イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。13そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。14それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。15「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、16暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」17そのときから、イエスは悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。

18イエスは、ガリラヤ湖のはとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ベトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。19イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。21そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。22この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。




2005
123 年間第3主日ミサにおける鈴木真司祭の説教







マタイ福音書における、イエスの宣教活動開始と最初に弟子たちが召される場面です。ここを読むたびに、イエスとイエスの弟子との関係について考えます。人間の師弟関係であればほとんどの場合弟子が師を選びますが、イエスは全く逆で、必ずイエスの方から弟子を運びます。わたしたちキリスト者は言わばキリストの弟子となった者です。先週、キリスト者の特徴は人間の側の要素にではなく「呼ばれる」というところにあると言いましたが、ここでも全く同じことが当てはまるでしょう。キリストの弟子は一人の例外もなく、イエスによって「呼ばれた者」なのです。

また人間の師弟関係だと月謝を払ったりしますが、キリストの弟子に与えられる条件はただ一つ、[イエスに従う]ことです。イエスは宣教活動の開始に当たって洗礼者ヨハネと同じメッセージ「悔い改めよ」と言われます。繰り返しお話しするように、この「悔い改め」と訳された言葉はギリシャ語の“メタノイア”で、生活や人生の一部修正ではなく生き方そのものを変えてしまうことを意味する言葉です。「悔い改め」という日本語だとどうしても“一部修正”の意味になってしまい、あまり良い訳語だとはわたしは思いません。同じ訳語の「回心」のほうがまだいいいいかな…。まぁ、いずれにしても「生き方そのものを変えてしまう」などと聞くと、わたしたちは“そんなたいそうなことはできない…”と尻込みしてしまいがちですが、マタイ福音書ではむしろ「悔い改め」とはイコール「イエスに従うこと」であると強調します。イエスに従う歩みの中で、わたしたちの生き方そのものが変わってしまうような、そんな存在へと変えられていくのだと言っていいでしょう。

しかしもう一つ引っかかります。「すべてを捨てて」イエスに従う弟子たちの姿を見ていると、“すべてを捨てるなんてとてもできない…”とやはり尻込みしてしまいます。でもそれはいわば結果論で、すべてを捨てた弟子たちの側にではなく、実は呼ばれたイエスの側にポイントがあるのです。[イエスは…二人の兄弟…を御覧になった」とありますが、この「御覧になった」と訳された言葉は“じっと見つめた”という意味だそうです。これも繰り返し申し上げるように、「目」は聖書では心のシンボルで、目が向いている方向は心が向いている方向を表すと言われます。つまりイエスが“じっと見つめた”とは、イエスの意識がその人に集中していることを意味しています。そしてイエスは「わたしに従いなさい」と呼ばれる。その呼びかけには、とりあえずその場にあるものを置いて従わざるを得ないほどの強い力がある、ということなのです。

わたしたちにも同じことが言えるでしょう。“キリストの弟子となる”ことは、わたしたち人間のレベルで考えればそれは自分の意志で教会に来たり、洗礼を受けたりすることですが、「イエスに呼ばれた」わたしたちは、知らず知らずのうちに実はもうイエスに従って歩んでいるのです。ではわたしたちの側では何もしなくていいのか…と言うとそれはそうでもないでしょう。イエスの呼びかけに応えるとは、イエスに従って歩む中でわたしたちが何か行動を起こすことであるのだと思います。どんな小さな行動でも、それがイエスに従うためのものならば、あとは神様がうまいこと導いて下さる。そこではわたしたちを通して、実は神御自身がわざを行なって下さるからです。
 昨年始まった第六地区としての新たな歩みの中でも、そのことを様々な面で強く感じます。当初はすったもんだ色々ありましたが、一つの行動が次の行動につながり、確かに豊かな実を結んでいます。イエスに従って歩む中で、人と人を隔てている壁や違いを超えてわたしたちが何らかの行動を起こす時、神は間違いなくそれを、予想しない形で膨らませて下さるのです。
 わたしたち一人ひとりがキリストを通して神に呼ばれ、実はすでに従って歩んでいることをいつも心に置く中で、常にイエスに従うための《行動》を起こし続けることができるよう、御一緒に祈りたいと思います。