ヨハネ1:29〜34
29[そのとき、〕ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。30「わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである」とわたしが言ったのは、この方のことである。31わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」32そしてヨハネは証しした。「わたしは、霊≠ェ鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。33わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遺わしになった方が、「霊″が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」とわたしに言われた。34わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
2005年1月16日 年間第2主日ミサにおける鈴木真神父の説教
ヨハネ福音書は、他の三つの福音書(マタイ・マルコ・ルカの共観福音書と呼ぼれるもの)とはもとになる資料も表現も全くと言っていいほど違って独特です。今日の筒所に出てくる洗礼者ヨハネの位置付けも、ヨハネ福音書独特のものと言っていいでしょう。例えば共観福音書では、投獄された洗礼者ヨハネが弟子たちをイエスのもとに送り、「あなたは本当にメシアなのですか?」と聞かせる場面が出てきます。洗礼者ヨハネがイメージしていたメシア像とイエスの言動とがそれほど違っていたことを示唆する部分ですが、むしろヨハネ福音書では最初から洗礼者ヨハネは自信を持ってイエスを「この方こそメシアである」と公言しますし、どちらかというと理想的証言者という位置付けを洗礼者ヨハネに与えるのです。約二十年という共観福音書との編集時期のずれがこのような要素を生じさせたと思われますが、ヨハネ福音苗の位置付けから学ぶべき重要なポイントもあります。今日の箇所で洗礼者ヨハネは繰り返し「わたしはこの方を知らなかった」と強調していますが、これはヨハネがイエスのことを「その人だ」と《知る》ことによって、改めて自分の役割が何であったかを《知った》ことを示しています。
ヨハネ福音書において「知る」という言葉はきわめて重要な信仰理解を表わすものであると言われますが、それは知識という意味ではなく 《イエスとの交わりに入る》こと、即ちそれが【神のわざである】ことに目を向けるということに他なりません。自分が今やっていることの本当の意味、それは往々にして《後になって》明らかにされる、ということではないでしょうか.
それは、それが本当は自分がしているのではなく自分を通して神がなさっている【神のわざ】であるからです。わたしたちは自分がやっていることの意味を自分なりに理解しているつもりでやっていますし、自分なりの意味づけもしているでしょう。しかし、神からの意味づけ、本当にそれが意味していることは後から振り返ってわかるのです。自分のことを振り返って見ると本当に多くのことに思い当たります。前にも話しましたが、わたしは司祭召命について確固たる自信を持って神学校に入ったわけではありませんでしたから、神学校時代はずっと「なんで俺はここに居るんだろう?」などと思っていました。司祭になってからは自分というより人に頼まれてすることのほうが多いのですが、それら全てが後になって振り返ってみると「そうか、あの時自分があの場に置かれていたのは神がそれを望まれたからだったんだ」ということに必ず気付かされるのです。人の目かち見ると「無駄だった」「無意味だ」「失敗だった」と思うことも多々あるわけですが、それが神のわざである以上、無駄なこと、無意味なことなど何ひとつないのです。また失敗だと見えることを通して、神は考えられない様な素晴らしいことをなさいます。そしてそれら全ては殆どが後になって気付かされることではないでしょうか。
第二朗読でTコリントの冒頭が読まれましたが、パウロは「召された」という言葉を強調して繰り返し使います。この言葉は“呼ばれた”という言葉の派生語だそうで、実は「教会」と訳されている言葉ももとは“呼び出された“という言葉の派生語だそうです。つまりキリスト者とは【神に呼ばれた】者であり、教会とは【神に呼び出された者の集まり】であることが示されているのです。キリスト者の特徴は、人間の側の要素、すなわちどういう人であるかには全くなく、ただ「神に呼ぼれている」ところにある、と言われます。まぁ、とは言うものの、わたしたち自身も「呼ばれている」という実感が持ちにくい時もあるでしょう。自分がキリスト者であることは、人の目から見れば自分の決断でありまた単なる偶然に過ぎません。しかし信仰の目で見る時、それはまさしく【召し出し】なのです。そして「呼ばれる」のは決して一回限りではなく、常にわたしたちは「呼ばれ続けて」いるのです。
わたしたちがいつも神に【呼ばれて】いること、そしてわたしたちの行動がすべて神によって意味づけられていることを心に置き、神のわざの道具として歩んでゆくことができるよう、共に祈り求めたいと思います。