洗礼は使命に向き合うしるし

イエス、洗礼を受ける (マタイ3-1317)

 13そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。14ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」 15しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないではしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。16イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。17そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

200519 主の洗礼((成人のミサ)における鈴木真司祭の説教   

 成人式を迎えられた皆さん、おめでとうございます。皆さんが今日ここにいるのは洗礼を受けたからで、それは実はものすごい大きな恵みなんです。でも皆さんはあまりそう考えたこともないでしょうし、私も皆さんの年齢の頃はそんなこと考えもしませんでした。

 今日の福音の箇所は、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた場面です。多くの聖書学者が指摘することですが、実はこれはイエス御自身の体験に基づくところではないかと言われています。「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。」とあるように、見ているのはイエス自身です。「神の霊が降った」と表現しているのは、要するにイエスが神から御自分に与えられた使命を意識したということではないか、というのです。

 わたしたちにとっての《洗礼》も、同じではないでしょうか。わたしたちにとって《洗礼》とは、自分が神から与えられている使命(役割と言ってもいいかも知れません)のしるしであり、それは自分という人間にしか果たし得ない役割、使命に他ならないのです。しかし無論、それはわたしたち洗礼を受けている人間の側の問題であって、逆ではありません。つまり洗礼を受けていないと神から恵みがいただけないのでは決してないし、洗礼を受けなければ役割が与えられないわけではないのです。それどころか、神は生きとし生けるもの全てに固有の役割を与えられています。そして人間にあっては、どんな人でも、キリスト者であろうとなかろうと、全ての人は神から選ばれ、その人にしかできない使命、役割を与えられているのです。そしてわたしたちキリスト者にとって《洗礼》は、そのことに向き合う一つのしるしなのです。

 私も皆さんと同じように幼児洗礼者です。生まれて一カ月目に洗礼を受けました。というか受けたそうです。気が付いたら教会に居ました。それ以来教会から離れたことはなく、大学生の頃は教会学校のリーダーなどもやっていたので、教会に行くこと自体は決して嫌ではありませんでした。ただ一つ自分の中で引っかかっていたのは“自分で選びたかった”ということです。

 洗礼も洗礼名も、自分で選びたかった。そこで皆さんと同じ年頃に考えたのは、キリスト教という宗教、カトリックという教派、そして聖書そのものを、自分の中で改めて捉え直したい、位置付け直したいということでした。そのために片っ端から本を読みあさり、聖書学をかじったりしました。遠藤周作さんにはまりました。遠藤さんがよく「自分は親から西洋の背広をむりやり着せられた。でもその背広は自分の体には合わなかった。今、自分の体に合うようにそれを仕立て直している」と書いているのを読んで、まさに自分と同じだと思ったりしました。

 そして当時はそんなこと全てを《頭》でばかり理解しようとしていました。やはり二十歳の頃が一番頭が回りましたから。でも後になって気付きました。神は自分に《洗礼》を通して確かに使命を与えられていたことを。自分が、ではなく神が御自分の中に私を位置づけていて下さったことを。自分がではなく、神が自分を通して様々な働きをなさっておられることを。

 でも無論、若い頃にそんなまじめなことばかり考えていたわけではありません。400CCのバイクを乗り回してすっころんだり、考えられない酒の飲み方をして街中で暴れたり。良い子の皆さんは決して真似しちやいけませんよ。まあいずれにしても、言いたいことは皆さんは一人一人神から選ばれて、固有の使命を与えられているということです。皆さん一人一人にしかできない特別の役割を。皆さんのような若い頃は、何でも自分で考えて、自分の希望を持って人生を選択していくでしょうが、時々ふと立ち止まって神様に相談してみて下さい。「私に与えられている使命、役割とは何ですか?自分はどの方向に行くべきなのですか?」と。神はそんな問いかけに実に不思議な形で応え手下さいます。私は神学校入学を決める時、ある神父さんから「呼ばれてますか?」と聞かれて、神から呼ばれないといけないのかと思い、毎日由比ケ浜の聖堂に通ってはこう祈りました。「神様、私はバカですから、分かり易いようにお願いします。もし私を呼んで下さっているなら、一言『オイ』と言って下さい。『オイ』と聞こえたら何の迷いもなく神学校に入ります。」‥でも「オイ」とは聞こえませんでした。「オイ」は聞こえないまま何となく神学校に入っちゃったのですが、これも後から気付きました。確かに神は自分にその時は気付かない形で呼んで下さっていたのだ、と。様々な人や出来事との出会いを通して、私を導いて下さっていたのだ、ということを。だから皆さんも神に問いかければ、その時は分からなくても、必ず応えていただけます。自分が思いもよらない、不思議な形で。

最後に皆さんにお願いがあります。これは成人式を迎える人に毎年お願いしていることなのですが、どうぞ選挙には必ず行って下さい。日本には税金ばかり払わされて選挙権のない人たちが沢山います。これだけ大勢の外国籍の人たちが生きる日本という国にあって、皆さんに選挙権が与えられたということは、その人たちの分まで皆さんが国に対して、社会に対して声を上げる使命が与えられたということでもあるのです。

成人式を迎えられた皆さんの上に、神様からの豊かな祝福がありますよう、心からお祈り致します。