マタイによる福音(マタイ 3・1-23)
1その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。2すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。3イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。4蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。5ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。6しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。7ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。8ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。9耳のある者は聞きなさい。」
《10弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。11イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。12持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。13だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。14イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。15この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』16しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。17はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。19だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。20石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、21自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。22茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。23良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」》
2005.7.10 年間第15主日 鈴木真神父説教
マタイ・マルコ・ルカの共観福音書と言われる三つの福音書全部に載っている『種を蒔く人のたとえ』です。『聖書と典礼』の注書きにも少しあるように、10節以降は残念ながらイエスの言葉ではなく、初代教会が書き加えた解釈の部分と言われています。確かに、『種を蒔く人のたとえ』では「種を蒔く」ということがテーマになっているのに、『たとえの説明』の部分では「種が蒔かれる上の問題」へと変わってしまっています。イエスがたとえを語る時は言わば“語りっぱなし”で、それを説明はしなかったというのが定説です。それゆえに後の教会がその解釈を付け加えたところが福音書にはいくつか見られます。では、この『種を蒔く人のたとえ』の本文が言わんとしているのはどのようなことでしょうか。
これも注書きにありますが、当時のパレスチナ地方の農業では種を蒔いた後に土を耕す・・というか土をかけていたのだそうです。農繁期は11月中旬から1月姶めで、一年のうちの殆どが農閑期であるために、農地には色々な状態の部分ができてしまっていたそうです。そんな場所にまず所構わず種を蒔き、その後に土をひっくり返す・・現代人の我々からすると非常に効率の悪いやり方ですが、イエスは当時の農業にたとえて、神様のやり方も同じだよ、と言うのです。
神様は土の・・つまり人間の状態などに構わずそこら中に福音の種を蒔かれている。人間の目から見たら効率が悪いように見えるけれど、必ず収穫が、それも豊かな収穫がある。第一朗読でイザヤ書が読まれましたが、ここでは「雨や雪がひとたび降れば決してむなしく天に戻ることのないように、神の言葉も同様である」と言われています。この箇所の直前に次の言葉があります。「わたしの思いはあなたたちの思いと異なりわたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる」・・ここで「異なる」と訳されている言葉は否定型で、“・・ではない”という意味だそうです。神の思いややり方は人間のそれとは天と地ほども違っている。人間の目から見たら一見無駄に見えることでも、神様の目から見たらまったく違うのです。福音の種を神がそこら中に蒔かれているのも、それが必ずいつの日か実りをもたらすことを知っておられるからなのでしょう。
以前ある二人の司祭の間で、「神の福音種蒔き論と刈入れ論」という論争がありました。一人の司祭は福音の種は我々が蒔くのだと言い、もう一人の司祭は種を蒔くのは神様で、我々は実りを刈り入れるのだと言っていました。わたしはやはり、後者に軍配を上げたいですね。福音書に一貫しているのは、福音宣教の主体はあくまで神様御自身である、ということです。福音の種蒔きは神様のわざなのです。我々も蒔くのかも知れませんが、それは神の道具として半ば無意識にでしょう。逆に沢山の人を通して、我々自身にも福音の種が蒔かれています。そして我々が気付くのは、それがすでに様々なところで実っているということなのだと思います。種というのは、色々な摂理を示すすごいシンボルだと思います。福音書の他の箇所にも種についてのたとえがありますが、例えばタンポポの種が風に乗って思わぬところに落ちて芽を出すように、神も意外なところに福音の種を蒔かれているのです。タンポポというとどうしても思い出してしまうのですが、わたしが司祭になって初めに赴任したのは長野県の松本の教会で、赴任したてでまず驚いたのはタンポポの大きさでした。道端に我が物顔で咲いている巨大なタンポポは、長野県の土と水と空気の豊かさを表しているようでした。二年後に横浜に赴任し、神奈川県サイズのタンポポを見て何となくほっとしてしまいましたが、よく見ると都会のタンポポもすごいな・・と感じました。アスファルトの間から健気に、でも力強く顔を覗かせているタンポポは、それはそれで神の福音の種の生命力の強さを暗示しているかのようでした。神様は意外なところに、そしてそこら中に福音の種を蒔かれています。人の目には無駄に見えても、それは必ず実るのです。福音的視点で見る時、その「神様の種蒔き」が神の【愛のわざ】に他ならないことにも気付くでしょう。様々なところで実っている福音の種の実りに、共に目を向けたいと思います。
