回 心
洗礼者ヨハネ、教えを宣べる。(マタイ3:1〜12)
1そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、2「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。3これは預言者イザヤによってこう言われている人である。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ』」
4ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。5そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、6罪を告白しヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 7ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。8悔い改めにふさわしい実を結べ。9『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言ってくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。10斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。11わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。12そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
2004・12・5待降節第二主日・共同回心式・説教 鈴木 真
待降節は四旬節と違い、「回心」よりもむしろ喜びを持って主の降誕を待つ季節である、と言われています。しかし今日の集会祈願にもあったようにわたしたちにとって絶えず「回心」は必要ですし、一年の終わりに当たって今年という時を見直し・改めて神に心を向け直すために、あえてこの待降節にも共同回心式をすることにしました。
「回心」ということを考える上で大前提になるのは、わたしたち人間は皆、どんな人でも等しく《罪人》であるということです。「罪」とは人間の心が神から離れている状態を表わす言葉ですから、わたしたちは普段殆どの場合「罪」の状態にあるわけです。それどころか、人間は生まれつき神から離れがちになる傾向を持って生きています。しかし一方で神様は、そんなわたしたち人間が御自分の方に向き直るのをいつも待ち続けて下さっています。今日の第二朗読でパウロは「忍耐と慰めの源である神」と言っていますが、これは非常に旧約的な表現であると言えます。旧約の人々はよく神を人間と比較して表現しました。人間にはとても我慢し切れないのだから、神はなんと忍耐強い方なのだろう‥というわけです。よく色々な人から「こんなわたしが赦されるんでしょうか」「こんなわたしでも赦されますか」と聞かれますが、そんなとき例外なく「もちろん!」とこたえることにしています。「もちろん赦されますよ!放蕩息子の話を思い出して下さい。あの父親は息子が帰って来るのをずっと待っていて、遠くから息子が見えたら自分から走り寄って抱きしめたでしょう。神様は赦される方なのですよ」‥と。以前はよく「わたしが保証します」などと言っていたのですが、わたしの保障はどうやら当てにならないようで、そういうと皆さん首をかしげるので言わないことにしました。最近気がついたのですが、《わたし》ではなく【聖書】が保障してるんですよね。ちなみにこれはわたしの「回心」です。《わたし》から【聖書】に目が向き直ったのですから‥。とにかく、この「こんなわたしが赦されるのですか」という問い掛け自体が回心の入り口であるとも言えます。神に心が向き始めているのですから。
もう一つ「回心」というと誤解されがちなのは、それがまず自分の内面を見つめて反省することだと思われてしまうことですが、実はそうではない。「回心」とはまず【外】へと意識を向けることなのです。今日の福音では洗礼者ヨハネが出てきます。毎年待降節第二主日は洗礼者ヨハネの箇所が読まれることになっているのですが、「悔い改めよ、天の国は近づいた」というこのヨハネのメッセージは、イエスが宣教活動を開始された時の最初の言葉と全く同じです。日本語訳では出てきませんが、原文では「回心しなさい、なぜならば神の国が近づいたから」となるそうです。「神の国(天の国)」は“神の支配”という意味ですから、神のわざがもうすでに始まっている、だからそれに心を向け直しなさい、と言っているわけです。まず神のわざに目を向ける、すると自分が神から離れてしまっていることにも気付くわけで、それこそが「回心」なのです。それはこの現代という時代を見た時に、わたしたち個人の回心だけでなく人間全体の回心が必要とされていることからもわかります。今年を振り返ってみると、相変わらず戦争やテロが続いていて、沢山の人の命が奪われています。また今年は台風や地震といった災害もあって、多くの人々が困難な生活を余儀なくされています。しかしそんな悲惨な現実をよく見つめてみると、他の重要なことも見えてきます。戦火にあって命がけで人々を助けるNPOやボランティアの方々、また災害地で困っている人に無条件に手を差し伸べている多くの方々。これこそが【神のわざの実現】です。そこまで目を向ければ、「回心」ということの本当の意味がわかってくるのではないでしょうか。
また、「回心」は祈りの一部であるとも言えます。「祈り」とは神に心が向いている状態なのですから。そして「祈り」が必ず神に聞き届けられることを考えれば、人間全体の回心を祈ることは、それがどこかで誰かの回心につながっているとも言えるし、逆に誰かの祈りがわたしたちを回心に導いてくれているわけです。ただ「人の回心のために祈る」というのは少々おこがましい気もするので、「わたしたち」と考えるべきなのかも知れません。以前も申し上げたように、「わたしたち」という枠は無限の広がりを持ちます。わたしたち茅ヶ崎の共同体、横浜教区のわたしたち、日本という場に暮らしているわたしたち、そして広くわたしたち人類・・というように。
今日は今年という時を振り返って、わたしたちの心を改めて神へと向け直しましょう。そして、わたしたち一人一人の回心も重要ですが、同時に、いやもしかするとそれ以上に必要な「人間全体の回心」についても思いを馳せましょう。それが主の降誕の祝いの季節に向けての本当に大切な準備とすることができるように、御一緒に祈りたいと思います。