ルカによる福音(ルカ2335-43

  35〔そのとき、議員たちはイエスを〕あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」36兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、37言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」38イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。 39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」40すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。43するとイエスは、「はつきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

 

20041121「王であるキリスト」集会祭儀で代読された鈴木 真神父さまの説教

       

 「王であるキリスト」の祭日は、年間最後の主日に祝われる日として1925年に定められました。今日の『聖書と典礼』の7ページに説明があるように、《イエス・キリストの「王としてのあり方」に心を向ける日》とされています。

 「王」というタイトルをキリストにつけることに、若干違和感を感じる人も少なくないのではないでしょうか。実はこれには、聖書に於ける「王」の位置付けと、イスラエルの民の歴史の流れが背景としてあるのです。

 旧約の時代、エジプトを脱出したイスラエルの民はパレスチナに定住し始めますが、他国のような王政をなかなか導入しませんでした。それは「神こそわたしたちの真(まこと)の王、神にのみ依り頼む」という信仰から、人間の「王」を戴くことに抵抗があったからです。しかしべリシテとの戦いという現実的な理由からどうしても「王」が必要になり、渋々ながらイスラエルも王政を導入します。この時、「王はあくまでも神によって選ばれる」「王は国民の誰よりも神に忠実でなければならない」「同胞を見下して高ぶることなく、常に戒めを守ること」など、かなり厳しい規定が律法に定められました。初代のサウル王を始め、預言者を通して王に選ばれた人は、祭司から頭に油を注がれました。(今日の第一朗読には、ダビデが長老たちによって油を注がれる場面が描かれています。)今日の福音に何度か出てくる「メシア」という言葉は、もともとは“油注がれた者”という意味で、「王」を指す言葉だったのです。イスラエルが「王」ではなく「メシア」という言葉を使ったのは、王はあくまでも神に選ばれたであり、《神との関わりの中で「王」であること》を確認し、強調するためでした。しかしイスラエルの王たちはやがて律法を忘れ、神から離れていってしまいます。人々はイスラエル王国が滅亡した後も、「真の王である神」への信仰を持ち続け、“神は必ず我々のために真の《メシア》を世に送って下さる,と信じていました。この頃から「メシア」は《救い主》の意味で使われるようになったのです。「メシア」はヘブライ語で、そのギリシャ語形が「キリスト」です。初代教会において「イエス・キリスト」という名称はもともと、「イエスこそメシア、キリストである」という信仰告白の言葉であったといいます。「キリスト」はもともと「真の王]を表わす言葉でもあるわけで、ここには人間のどんな「王」とも違うお方の存在が提示されている、と言ってもいいのではないでしょうか。

 今日の福音の箇所がそうであるように、イエスの十字架の場面で特にローマ帝国やユダヤ人たちがイメージした「王(メシア)」と「救い主(メシア)」であるイエスとの決定的な違いが浮き彫りにされます。まず十字架にかかる「王」などは考えられなかったでしょう。人々は「お前がメシアなら自分を救え」と言ってイエスを罵りますが、イエスは生涯において自分のためにその力を使われることは一度もありませんでした。それどころか、十字架上でさえ人を救われる方なのです。イエスが《メシア》である、ということは、違う言い方をするならば神がどのようなお方か、何を人間に望んでおられるかを示すしるしであると言ってもいいでしょう。

 第二朗読におかれた『コロサイの教会への手紙』の中で、パウロは「キリストは見えない神の姿をあらわす方」であると言っています。神が御自分のつくられた一つ一つのいのちをどれほど愛しておられるか、またそのいのちがどのように生きてゆくことを望んでおられるか、そのことを自分の命を持って示されたイエスが《メシア(キリスト)》と呼ばれます。「王であるキリスト」という言葉の持つ深い意味が、そこから汲み取れるのではないでしょうか。パウロはまた、「御子はその体である教会の頭(かしら)です」とも言います。人間のどんな「王」とも違う《キリスト》を頭とする教会が、どのような共同体であるのかもすでにここに示されているように思います。

  わたしたちの共同体も、本当の意味で常に【キリストの教会】であり続けることができるよう、「王であるキリスト」の日に御一緒に祈りたいと思います。

王であるキリストの意味