世の終わり・終末と『今』
神殿の崩壊を予告する ルカ21:5〜19
5ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。6「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」 そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」8イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。9戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」10そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。11そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。12しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。13それはあなたがたにとって証しをする機会となる。14だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。15どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。16あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。17また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。18しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。19忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」
2004.11.14年間第33主日 鈴木 真神父の説教
今日の箇所も含めてルカ21章は、マタイ・マルコ・ルカの共観福音書全体でも共通している「小黙示録」と言われる部分で、福音書では珍しく黙示文学的に〈世の終わり・終末〉を措いています。〈世の終わり〉と言われても、わたしたちにはそれが具体的にどのような形で来るのか知ることはできません。果たして地球滅亡の日なのか、宇宙全体がどうかなってしまうのか‥。一方でわたしたちは、自分が生きている間はまあ、世の終わりはまだ来ないだろう‥などと漠然と思っているものではないでしょうか。一つ笑ってしまうのは、2000年が近付いた頃、世紀末だなんだと言われてやたらと「地球滅亡」をテーマにした映画などが流行りましたが、2000年が過ぎるとあまり言われなくなってしまった事です。しかし他方で現代世界を見つめてみると、今日の箇所で言われていることは全部現実に起こっていることにも気付かされます。
戦争、暴動、民族紛争、地震、飢饉、疫病‥。ある意味でわたしたちは、今まさに〈世の終わり・終末)を生きているとも言えるのかも知れません。
イエスの弟子たちの時代、またそれとは違った形で〈世の終わり〉に対する一種の切迫感、臨場感があったと言われています。もう明日にでも世の終わりが来る、早くなんとかしなければ‥という思いです。パウロの手紙などを読んでいるとそれがよく感じられます。今日の第二朗読の「テサロニケの教会への手紙」では、テサロニケの教会のある人たちが「世の終わりが来るのならもう働いても仕方がない」と言って怠惰な生活を送っている‥ということをパウロが聞いて、厳しく警告している言葉が綴られています。そうした〈世の終わり〉に対する切迫感には、確かに背景となる状況がありました。キリストの十字架と復活の出来事の後、ユダヤ戦争という長い戦争があって、紀元70年にはローマ軍によってエルサレムの神殿は崩壊し、キリスト者に対する迫害も厳しくなっていきました。そんな状況の中で、キリスト者たちは「いよいよ世の終わりが来た」と強く感じたことでしょう。今日の箇所の冒頭で神殿崩壊の予告がなされていますが、これが読まれた頃には、実際にもうエルサレムの神殿は無かったのです。
福音書が編集されたのは、弟子たちの次の世代においてです。その頃になると一つの疑問が出てきました。「どうやら〈世の終わり〉はすぐには釆ないらしい‥」そうしたいわゆる〈終末遅延〉の問題と言われることに対して各福音書ではそれぞれの応えかけがなされています。今日の箇所にもあるように、ルカ福音書が強調するのは「世の終わりはいつか来るかも知れないが、大切なのは『今』という時。その中に神の救いが置かれている」ということです。ルカ福音書において「今」とか「今日」という言葉には特別の意味が込められています。それは神の救いが実現する瞬間、キリストとの出会いを通して神の救いに触れる「時」なのです。今日の箇所の終わりに「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」とありますが、ここで「忍耐」と訳された言葉はもともと“とどまる”という意味で、そこには二つの場に“とどまる”事が言われているそうです。一つは《この世にとどまる》、もう一つは《神にとどまる》です。逃げるのではなく、与えられている場で、神のいのちを生きようとする時、それが救いにつながる、と言われているわけです。〈迫害〉もまた救いのしるしである、と言われています。人の目から見たら起こらないはうが良いこと、希望を失いがちになること‥しかしそこにこそ《神の救いのしるし》が置かれている、というのです。でもその《救い》はこの世的、現世利益的なものではありません。「神の目から見た《救い》」それは神の大きな愛を前提とするものです。「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」‥“神のおゆるしがなければ”ということです。人の目から見たらほんの小さなものでさえ、最も小さないのちでさえ神はこよなく愛して下さっている。だから恐れることはない、というわけです。
わたしたちに与えられた「今」という時とそれぞれが置かれている「場」、そこにこそ神の救いのメッセージが置かれていることを、共に見つめることができますよう、祈りたいと思います。
