金持ちとラザロの喩えが意味するもの

 (ルカ161931

 19「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。20この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧い人が横たわり、21その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。22やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。23そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。24そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』25しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。26そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』27金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。28わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よくいい聞かせてください。』 29しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』30金持ちは言った。『いえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』31アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

 

2004926 年間第26主日 鈴木 真司祭の説教       

 

 「金持ちとラザロのたとえ」です。旧約の時代、人々は財産や富、家畜、そして家族も、すべて神からの賜物であると考えていたようです。半遊牧的生活をしていたイスラエルの民にとって、家畜も財産の一部であると同時に家族でもあり、また子孫繁栄という点から家族が多いのはそれも財産であるとして、それらが多いのは神から祝福されているしるしであるととらえました。

イエスの時代にはそれがおかしな形で残り、すなわち金持ちは神から祝福されていると人々は考えました。ゆえに金持ちは自分の富を大いに誇っていたし、神に近い人々と思われていたようです。他方で、今日の第一朗読にもあるように旧約の時代の預言者達は富を余る者達を痛烈に批判し、福音書においては、イエスは「金持ち」に対しては非常に厳しいことを言われています。福音書の他の箇所でイエスは、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われますが、これは当時よくあった言い回しで、要するに“ほとんど不可能”だというわけです。これを聞いていた弟子たちは皆仰天し、「金持ちさえ神の国には入れないのなら、じゃあいったい誰が入れるんだろう?」とささやき合いますが、それにはこうした思想背景があったわけです。

 

 今日のたとえも、ルカ福音書ではファリサイ派の人々に対して語られたものとしますが、いずれにしても聞いていた人は相当驚いただろうと思われます。ただ、「金持ち」であること自体が悪いと言われているのではありません。金持ちの家の門前にいた貧しいラザロは死後救いにあずかるわけですが、ここでの一つのポイントは、ラザロの人格的側面は一言も言われていない、ということです。“ラザロは貧しいけど良い人だった”とか、“心が清かった”などとはまったく書かれていません。要するに、現代のわたしたちもよく考えがちな《生前良い事をした人は天国に入れて、悪い事をしていた人は地獄に行く》といったいわゆる“因果応報”的なものではまったくない、ということです。それどころか、神はすべての人を救おうとなさっており、中でも真っ先に貧しい人、小さな存在、いたみや重荷を負っている人々に目を注がれる、というのが福音書のメッセージであるわけで、「金持ち」だとそうした神の視点が見えなくなってしまう、というのが今日のたとえの主題なのです。

 

金持ちは自分の家の門のすぐ外にいた貧しいラザロにまったく関心を持ちませんでした。ちなみに「門」は家の内と外とを分ける“境界線”としてのシンボルによく使われるものです。例えば出エジプトの時の「過ぎ越し」で、イスラエルの人々に「門のかもいに子羊の血を塗るように」という指示が出されたように‥。【内】にしか目を向けず【外】に目が向かなかった金持ちにとって、その“境界線”は後に「越えられない大きな淵」になってしまいました。【外】に、そして神に目が向かなくなると、とりかえしのつかないことになってしまう、という警告です。

 

ここで「陰府」という言葉が出てきますが、聖書の時代はわたしたちが考えるほど死後の世界についてまとまった思想があるわけではなかったようです。だからこれが「地獄」と同一のものなのかも分からないし、そもそもこのたとえの目的は死後の世界を語ることではなく、どのような視点を持って生きるべきかを示そうとするものなのです。

 

常に【外】へ。何度も申し上げてきましたが、これこそが「回心」の最も基本的な要素です。自分ではなく自分の【外】へ、わたしたちではなくわたしたちの【外】へ。10月から実施予定の「ミサのない主日の集会祭儀」も、こうした視点を持って新しい教会のありかたを考える中で出てきたものでした。「集会祭儀」を行なうことが目的では決してありません。自分たちの共同体のことだけでなく、地区内の他の教会、隣の教会、近くにある共同体に目を向けて、互いに支え合おうということなのです。「わたし」ではなく共同体の他のメンバーへ、「わたしたちの共同体」だけではなく他の共同体へ、さらに教会だけでなく地域へ、社会へと、常に【外】へと意識を向ける中で、神の思いにいつもわたしたちのそれを合わせてゆくことができるよう、共に祈り歩んでゆきましょう。