2004822

後のものが先になる

 

(ルカ132230) 狭い戸口 (マタ7 13142123

 22イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。23すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」という人がいた。イエスは一同に言われた。24「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても人れない人が多いのだ。25家の主人が立ち上がって戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って、戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。26そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。27しかし主人は、お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。28あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。29そして人々は、更から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。30そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

 

年間第21主日 鈴木 真司祭の説教

 

 今日の箇所は‥どうも何度読んでも感じ悪いですね。「泣きわめいて歯ぎしりする」‥裁きの時の警告として福音書に何度か出てくる表現なのですが、読む度になんでこんな言い方をするかなあ‥と思っていました。調べてみるとこれは、《迫害者としての敵が受ける辱しめ》の旧約的表現が元の形だそうで、実際今日の箇所の中の多くの部分が旧約からの引用になっています。例えば「狭い戸口から入るように努めなさい」、マタイ版では「狭い門から入りなさい」で後に有名になった言葉ですが、これももともとユダヤ教にあった格言からの引用なのだそうです。

先日、ある方からこんなことを言われました。「聖書を読んでいると矛盾を感じる。ある箇所では神の大きな愛や無条件の救いを説いているのに、違う箇所ではまるで救いがないようなことが言われる。これほどういうことですか?」と。その時はこう答えました。「実は、残念ながら福音書の全てがイエス御自身の言葉に遡るとは限らないのです。後の時代に教会が付け加えた部分や、編集者が編集段階で挿入した部分など、少なくありません。特に“裁き”が語られる部分は、初代教会に於けるユダヤ人キリスト者の保守的なグループ、即ちユダヤ教の影響を色濃く残した人々に由来する伝承からのものが多いそうです。ユダヤ人は“裁き”が好きなようなので‥。ですから、逆に『あれ?』と思った部分、『こんなこと本当にイエスが言ったのか?』と疑問に思った部分がポイントになります。それを調べてみることで編集者の意図などがわかるし、逆にそこで本当にイエスが言おうとしていることが浮き彫りになる場合がありますから。」

‥今日の箇所も、実はルカ福音書の著者の手がかなり入っているところだと言われています。テーマとしては、《イエスを受け入れようとしないユダヤ人たちに対する警告》です。ルカ福音書自体が異邦人キリスト者、つまりユダヤ人でないキリスト者の共同体を母体としていますし、《救いはまずユダヤ人に向けられていたが、ユダヤ人が受け入れなかったがために異邦人へと向かった》というのがルカの大きなテーマの一つです。29「そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」というのも明らかに異邦人の救いを指しています。ルカ福音書が編集された時代にすでにユダヤ教側からのキリスト者への迫害が始まっていた、という時代背景も関係しているのでしょう。イエスを受け入れず十字架に付けてしまったユダヤ教の指導者たちに向かって、《ユダヤ人だという理由で救われると思うな》という厳しい警告をルカ福音書は発しているわけです。

まあそんな部分を割り引いたとして、今日の箇所から福音のメッセージとして何が汲み取れるか考えてみましょう。今日の箇所の元になんらかのイエス自身の言葉に遡る部分があるとするなら(あるかどうか定かではありませんが‥)やはりある面でそれは【警告】なのだと思います。“神の大きな愛と救いに気付かず、あるいは受け入れずに自ら背を向けてしまうならば、取り返しのつかないことになってしまう”‥という。そう考えると、さきほどの福音書に感じる矛盾点もある程度納得できるかも知れません。一方で聖書は神の大きな愛を説きます。【こんなにも神はわたしたちを愛して下さっている、こんなにも神は一つ一つのいのちを掛け替えのないものとして大切にして下さる】‥だから、と言うわけです。だから、それに気付かず見過ごしたり、気付いているのに受け入れずに自ら背を向けてしまうなら、自分から滅びに向かうようなものだ、と。“裁き”として語られている部分は、こうした【警告】が元だったのかも知れません。

もう一つはやはり【警告】、それもわたしたちの中にある【倣慢さへの警告】ではないかと思います。自分は正しい、自分はよくやっている‥とわたしたちはいつも思いたいところがありますが、それはともすると自分から見て正しくない人、自分よりよくやってない人への批判につながり、神から離れてしまうことにもなりかねません。実は本当に正しいことなど、人間にわかるはずがないのですから。30「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」‥自分が“先にいる”と思った瞬間、実は“後”になっているのかも知れません。わたしたちは《自分》に目を向けてしまうことで倣慢になりがちです。そうではなく《他人》からいつも学ぶ視点が求められているのでしょう。人の中に神の愛のしるしを見、救いのしるしを見る時、逆に《わたし》も神に愛されていることに気付くのです。“後にいる”と思っていた自分がこれほど救いに招かれている、ということに気付かされるのだと思います。

人の姿の中に置かれている神の大きな愛と救いのしるしに目を向けることが出来るよう、共に祈りましょう。